オーストリアのシャレンベルク首相は19日、チロル州のリゾートホテルで開催された連邦・州代表合同会議後の記者会見で、今月22日から4回目となるロックダウンを実施し、来年2月1日からワクチン接種の義務化を実施すると表明した。新型コロナウイルスの感染が猛威を振るう欧州ではワクチン接種が勧められているが、接種の義務化はこれまでバチカン市国以外にない。フランスなど一部の国では医療・福祉関係者など特定の職種に従事する国民に対してはワクチン接種を義務化しているが、国民全てを対象とした義務化はこれまで行われていない。
旧ソ連・東欧共産政権時代や新型コロナウイルスの発生地・中国ではワクチン接種を義務化することに大きな困難はないが、国民の自由を尊重する欧米社会ではワクチン接種の義務化は国民の抵抗もあって久しくタブー・テーマだった。このコラム欄で「コロナ規制で『自由』が障害となる時」(2021年11月12日参考)を書いた。人間の最も基本的権利と言うべき「自由の尊重」が新型コロナウイルスなどの感染症対策では大きな障害となっていることは事実だ。
ドイツではワクチン接種に反対する人々が多い。1874年、天然痘へのワクチン接種義務が実行されたが、当時も接種反対運動が起き、反対者の雑誌も出版されたという(独週刊誌シュピーゲル11月13日号)。オーストリアでは1939年、ナチス併合政権下でワクチンの接種義務化を実施したが、それ以後、ワクチンの接種義務は行われていない。
キリスト教社会の欧州では中世時代から宗教的な教えや慣習が支配的だったが、啓蒙思想が広がり、人本主義が台頭し、科学的真理が広がっていくにつれ、合理的、理性的な科学的真理が宗教的な教えを凌駕していった。
興味深い点は、科学的真理が宗教的信条を打破し、宗教的な教えや慣習が後退し、宗教と科学の戦いは科学側の勝利に終わったと思われてきたが、新型コロナのワクチン接種問題では、科学者たちが英知をあげて製造したワクチンに対し、「遺伝子を変える危険性がある」などのフェイク情報が氾濫し、コロナウイルスが猛威を振るっていてもワクチン接種をしない人々が出てきたのだ。「科学」への不信だ。
コロナ・ワクチンの場合、mRNAワクチンへの不信だ。従来のワクチン(不活化ワクチン、組換えタンパクワクチン、ペプチドワクチン)はウイルスの一部のタンパク質を人体に投与し、それに対して免疫が出来る仕組みだったが、mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンやウイルスベクターワクチンでは、ウイルスのタンパク質を作るもとになる遺伝情報の一部を注射。人の身体の中で、この情報をもとに、ウイルスのタンパク質の一部が作られ、それに対する抗体などが生まれ、免疫ができる仕組みだ。コロナ・ワクチン接種に反対する人々は、新しい科学的成果、遺伝子操作を駆使したワクチンに抵抗感が払しょくできないわけだ(「『オーダー・メイドの薬』目指す生化学者」2021年9月26日参考)。
宗教の科学への逆襲だろうか。それとも科学至上主義に走ってきた人類が科学の限界を感じ出したのだろうか。明確な点は、コロナウイルスのワクチン接種問題で科学の成果に対する評価が揺れてきていることだ。宗教に対して幻滅し、神を捨てた現代人は今、これまで全幅の信頼を寄せてきた科学的真理、成果に対しても完全には信じられなくなってきているのだろうか。
この推測が正しいとすれば、人類は厳しい状況に陥る。現代人が残された選択は、①捨て去った宗教の世界に戻り、放棄した神と和解するか、②科学的真理と宗教的な教えの和合を模索していくか、③ニヒリズム(虚無主義)の世界に入る、等の3つの選択肢しか残されていないからだ。
ただ、ワクチン接種に反対する人々は、「我々が反対しているのはワクチンではなく、ワクチン接種を強要する政治家たちに対してであり、ワクチンを急造して莫大な暴利を得る世界の製薬会社に対してだ」と反論する。要するには、ワクチン接種反対者は「科学的成果への不信」というより、「人間不信」に陥った人々の叫びだというわけだ。
とすれば、ワクチン接種反対者は決して科学的真理を放棄した人々ではなく、人間不信に陥っている人々というべきかもしれない。ワクチン接種の効用を長々と説明してもあまり効果は期待できないことになる。むしろ、説明すればするほど、反発は大きくなるのではないか。なぜならば、ワクチン接種反対者への処方箋がはじめから間違っていたからだ。
シャレンベルク首相は、「社会の少数派ともいうべきワクチン接種反対者が多数派の我々を人質にし、社会の安定を脅かしている。絶対に容認できない」と、珍しく強い口調で述べていた。感染力と致死率が高いコロナウイルスのパンデミック感染症から社会を守るという点で接種の義務化は急務だが、ワクチン接種反対者を説得するのは望み薄だろう。その問題は感染症対策ではないからだ。彼らはワクチンの有効性や安全性を問題にしているように装っているが、実際は人間不信と政治不信に陥った人々だからだ。その意味で、非常に古典的なテーマだ。
「人間不信」に対する処方箋は残念ながらまだ見つかっていない。ひょっとしたら、宗教が再び人々に声をかけることができるチャンスとなるかもしれない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2121年11月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。