ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所(前編)

高橋 克己

本稿で述べることに筆者が気づいたのは、林董の拙稿を纏める過程で読んだ『ヘボン』(高谷道男:吉川弘文館)の「上海のミッション印刷所は二つあった。美華書館(American Presbyterian Mission Press)と墨海書館とで、主に中国語の聖書ならびにキリスト教書籍を印刷出版していた」との記述からだ。

医師であり長老派宣教師でもあったヘボン(1815.3ー1911.9)の日本到着について、市井の近代史家鳥居民は『横浜山手』(草思社)で次のように記している。

カソリック教会のフランス人神父が横浜に来て一月足らずあと、プロテスタントのアメリカ人牧師が横浜に上陸した。ジェームス・カーティス・ヘップバーン、すなわちヘボンとその妻クララだった。1859年10月半ばのことである。すでに各国領事は神奈川に駐在していたし、ジャーデン・マセソンやデントといった商社の派遣社員も横浜で活動を始めていた。

ジェームス・カーティス・ヘボン
出典:Wikipedia

生麦事件の被害者治療やヘボン式ローマ字の考案で知られるヘボンだが、それは彼の逸話のほんの一部で、高谷は彼の治績を、「医療事業」、「辞書の編纂」、「聖書の翻訳」、「英学塾の創設」、そして「教会の建設」に分類する。加えて、ヘボンにはシンガポール、厦門、ニューヨークでの治績もある。

医療事業では日々30〜40人の主に眼科の治療を、私財と外国商社の寄付とで行った。その合間に8年かけて『和英語林集成』を成し、新約・旧約聖書を和訳し、英学塾では林董の他にも大村益次郎や高橋是清らに教育を施し、明治学院の創設をし、そして指路教会堂を創設した。

その『和英語林集成』印刷のため、ヘボン夫妻が上海の「美華書館」に赴いたのは1866年10月、全600頁の完成は翌年6月だった。望月洋子の『ヘボンの生涯と日本語』(新潮選書)に「初版印刷部数は限定千二百部」とある。2万語収録のこの英和・和英辞書用に「ヘボン式ローマ字」を工夫した。

筆者は「美華書館」に見覚えがあった。それは三姉妹の長女靄齢を孔祥熙に、次女慶齢を孫文に、三女美齢を蒋介石に、それぞれ嫁がせたチャーリー・宋(1866–1918.5)とその一族を描いたS・シーグレーブの『宗家王朝』(岩波現代文庫)の次の記述だ。

海南島の貧農に生まれたチャーリー・宋は、9歳だった1875年、おじの養子として米国に伴われ、ボストンで茶や絹を扱う商店の店員として働くことになった。・・彼は自分の会社を「華美書館」と命名、すぐさまアメリカ聖書協会とは聖書の、メソジスト派とはパンフレットの、そして宣教師のいくつかのグループとは讃美歌集の印刷の契約を結んだ。

チャーリーを富豪にした印刷所の名は「美華」でなく「華美」だったし、ヘボンが上海に行った1866年はチャーリーの生まれ年だ。はて別の印刷屋かと思いつつWikipediaで「美華書館」を当たると、こう書いてある。

1844年、米国長老派教会は清国への布教にあたってマカオのポルトガル人居住区に華花聖経書房を設立した。・・1854年、華花聖経書房は浙江省寧波に移転した。1858年、米国長老派教会が華花聖経書房へ印刷技師のウィリアム・ギャンブルを派遣。同年、華花聖経書房は美華書館と改名し、1860年12月に上海小東門に移転。1866年、日本からヘボンと岸田吟香が日本から上海へ赴き、『和英語林集成』の印刷のために美華書館を訪問した。・・1915年、美華書館華美書館と合併したが、28年に清算し、設備は商務印書館に譲渡した。

『宗家王朝』にもこうあった。

第一次広州蜂起の後の何年か、チャーリーの出版業は筍のごとく成長した。・・事業の発展につれて・・西洋人には「聖書印刷のチャーリー・スーン」として知られるようになった。また投資家と組んで「商務印刷館」を創立し、・・やがてアジア最大の出版社の一つに成長する。

広州蜂起はチャーリーが資金面の後ろ盾をした孫文(1866.11-1925.3)が、日清戦争の隙に乗じて1895年に恵州で起こした。チャーリーの「華美書館」はその20年後に「美華書館」と合併し、後に「商務印刷館」と改名したことになる。

それがなぜ「南京大虐殺の捏造者」と繋がるのか。「美華書館」のWikipediaにはこんな記述もある。

美華書館はその後の中国で印刷技術に携わる人材を輩出した。例えば1897年2月に上海に成立した商務印書館の設立者である夏瑞芳・鮑咸恩・鮑咸昌・高鳳池はもと美華書館の植字工であり、長老会の信者であった。商務印書館の設立には当時の美華書館の責任者のジョージ・F・フィッチの援助があった。

望月本は美華書館を「米人ウイリアム・ガンブル主宰の長老派教会印刷所」で、「漢籍キリスト教書を出版して」おり、「ガンブル技師は、初めてとは思えぬ日本文字、片カナや平ガナの活字を次々と作って見せた」が、「中国人植字工は、日本語活字と英語活字を対応させるのに音を上げ、・・カナを知らぬものだから“テ”と“ラ”、“ソ”と“ン”の混同が点在」した書いている。

Wikipediaの記述にチャーリー・宋(韓嘉樹)の名前は出ていないが、彼は孫文と関係し始めてから表に出るのを避けたらしいから不思議はない。そのことより、この記述で興味深い人物は「商務印刷館」の設立を援助した美華書館の責任者ジョージ・F・フィッチだ。

フィッチという名にも覚えがあった。それは南京大虐殺のでっち上げに加担した米国人宣教師の名前だ。が、このフィッチが南京の事件に関わったフィッチかどうか判らない。そこで更にネット検索すると2016年6月27日付の韓国英字紙「コリア・ヘラルド」に行き当たった。

記事の見出しは「“韓国を愛した外国人” 韓国独立運動家の支援者、ジョージ・フィッチ家」。その内容は韓国政府が1968年に宣教師のジョージ・A(アシュモア)・フィッチに独立功労勲章を授与したという極めて興味深いもので、次のように続く。

フィッチは蘇州生まれの米国人宣教師で、1919年には中国の上海で朝鮮人独立運動家たちに集会所を提供し、1920年代には朝鮮人救援会の理事や仁成学校の顧問を務め、1932年には虹口公園での尹奉吉の愛国的な行為の後、金九を避難させた人物である。

「尹奉吉の愛国的行為」とは、第一次上海事変停戦交渉中の32年4月29日に上海虹口公園で行われていた天長節祝賀会場に手榴弾を投げ込み、白川義則上海派遣軍司令官陸軍大将らを爆殺、野村海軍中将(後に駐米大使)と重光葵上海公使(後に外相)らに大怪我を負わせたテロ事件だ。

首謀者は19年に上海臨時政府に加わり、大韓民国臨時政府の大統領も務めた金九で、自身も49年6月に暗殺された(参考拙稿「朝鮮半島分断小史①~⑤」)。実行犯の尹奉吉が乗った車を運転していたジョージ・A・フィッチを、韓国は事件から36年後に叙勲したというのだ。

この記事で美華書館のF・フィッチがA・フィッチの父親と判り、南京大虐殺と美華書館が繋がった。F・フィッチは1845年1月オハイオ州で生まれ、長老派の神学校を卒業後の1870年に中国での宣教師として上海に移住、そこで美華書館に関わった。

1923年にF・フィッチが亡くなり、その宣教師職をA・フィッチ(1883-1979)が継いだ。蘇州で生まれたA・フィッチは進学のため1900年に一旦帰米、06年にオハイオ州ウースター大学を卒業後、ニューヨークのユニオン神学校で学び、牧師になった。

同記事には、「1909年に上海に戻ったA・フィッチは、YMCA事務局長に就任し、毎週水曜日の夜に行われる聖書研究会には、孫文やチャーリー・スーンなどの著名な実業家が参加した」と孫文やチャーリー宋との関係も記されている。

後編に続く)