外交官林董の治績・日英同盟の成立背景とその有用(後編)

高橋 克己

英国対案の第一条に対する日本政府の異議は、「日本政府は韓国に於いて」と「英国政府は清国に於いて」が対になった文句を見ると、「恰も日本が支那に於ける利益を放棄した様に感ぜられる」ので「日本政府は」以降の文言を削除し、下記の文言を以てこれに代えることを希望するというもの。

韓国に於いて、日本が商業上及び政治上に格段の利益を有する事を考え、英日両国政府は、是等の利益が侵犯せられる虞ある時、各自之を防御するに、欠くべからざるの手段を執ることを相互に許す。

ランズダウン候は日本が削除した「他国の為に侵略せらるる虞ある時」は、「ソールズベリー候が加筆したもの」で、日本が韓国を侵略するために他国と戦端を開く場合、英国がその渦中に引き込まれるのを防ぐ目的があり、「閣員同一の同意を得たもの」なので同意し難い旨を述べた。

董はその懸念は第一条の冒頭で打ち消してあると述べたが候は首肯せず、董は政府にそれを伝えた。政府は「或る他国の侵略」を除いた理由は、日本または英国の利益が清または韓国の「内部の擾乱」で蹂躙されることを「或る他国の侵略」と同様に見做すためで、「内部の擾乱」の語を入れるなら「或る他国の侵略」を残しても良い旨、言って来た。

なおも「内部の擾乱」の挿入は閣員の異議を呼ぶとする候に、董は韓国の甲申事変や、東学党の乱が日清戦争の引き金になった事実、そして義和団事件を示し、また「他国の侵略」なる文言は一見明瞭に思えるが、実際は「侵略であるかないかを判別するは、頗る困難なことである」と述べて説得した。

すると候は締結一週間前の1月24日、第一条の末段を以下にする案を持って来た。

是等の利益が、他国の為に危うくせらるる時、或は清国若しくは韓国に於いて擾乱あるに由り、締約国がその臣民の生命財産を保護する為に干渉を必要とする時は、両国各必要なる手段を執ることを許す。

これなら日本政府も拒む理由はなく、ここに日英同盟締結の運びとなった。引き続き政府から董には、ドイツの誘引に関し、「英国の希望に任せているが、なるべく早く加盟せしめたい」とし、ドイツに対し両国同時に申し出ることとしたい旨、言って来た。

候に伝えると、最近、ドイツの宰相ビューロー伯が議会でチェンバレン英植民大臣を難詰する演説をした上、英国軍を蔑視した文句があったので、南ア戦争に対する独紙の悪口にも憤慨している英国民の理解が得られないとして誘引は辞め、協約も全文でなく要点のみ示すと言う。日本もこれに同意した。

ところで、伊藤が纏まりかけていた日英同盟交渉を頓挫させかねない挙に及びかけた件だが、その経緯はこうだ。伊藤はエール大学百年祭で法学博士号を授与されることになり、訪米の後、仏露を訪問して帰国する旅程で、01年9月半ばに日本を発った。

桂首相は出発前に送別会を開き、井上・山県も招いた。が、そこで山県は、伊藤が日露協商を独断で推進することの危険を指摘、政府の承認の下で行動すべきことを主張し、伊藤との間に気まずい空気が流れた。山県はロシアと衝突しても日英同盟締結が得策との考えを持っていた。

井上は、桂と8月下旬に伊藤を訪うた際、朝鮮問題に関しては日露協商が必要であり、その機運が熟していると述べ、伊藤に訪露を勧めた結果この旅程になった経緯があった。桂は朝鮮問題が解決されるなら日英でも日露でもどちらでも良いという態度だった。井上と桂は、書生に草案を渡すだけと陸奥が言う大臣・元老の類だったか。

だが事態は日英同盟優先で董が英国で走っており、11月13日には第一条のみが留保の英国対案を政府に電報するまでになっていた。が、伊藤はそこまで進んでいると知らなかった。11月の電報を受けて小村外相は董に、パリで伊藤と面会し、往復電報を示しつつ英国対案への伊藤の賛助を得ることを試みよ、と言って来ていた。

董の話に一時は当惑した伊藤も、「英国から協約草案まで到来しているとあっては、我が政府が手を引く訳にはいかぬ」と先ずは承諾した。が、董は伊藤が英露両強国に対し順慶流の筆を用いること(筒井順慶から二股を掛ける意)の危険を思い、次のように釘を刺した。

日露協商を是非締結するという方針である以上は、第一の方法は先ず英国との同盟を成立させて、然る後に英国に打ち明けて、日露の交渉を開始することとすれば、其こそビスマルク流の大外交家となるであろう。又若しこの方法に不同意とすれば、第二の方法として、少なくとも英国との交渉進行中は、露国に行かれた時に、候の方から協商に関して少しも口を開かず、先方から何か申込でも来れば、好い程に挨拶して引き取らるることに願いたい。

さすがの大宰相も形無しだが、正論に抗弁しようもなく第二案に同意した。が、問題は英国だ。伊藤のロシア行きを気にしない訳がない。董は伊藤のロシア行きに意味はなく、11月のロンドンは霧が深いから、先にロシアに行き、英国は年が明けて行く方が良かろうということになった、と弁明した。英国側も満足の体ではなかったが、結局、それ切りになった。

日英同盟が、締結2年後の04年2月に勃発した日露戦争(〜05年9月)で有用だったことはよく知られる。とはいえ第二条にある通り、戦争相手が一国の場合、締約国の一方は厳正なる局外中立を守り、他国が締約国の敵と連合することを防ぐことに尽力するしかない。

が、英国は中立を装いながら諜報活動やロシア海軍への非協力などで日本を助けた。例えば、英国は艦砲の射撃能力を高める照明器具を日本だけ売った。またバルチック艦隊のスエズ運河通航を許可せず喜望峰周りを強い、かつ良質炭の売却や英国籍船舶による物資輸送も拒んだ(『条約で読む日本の近現代史』祥伝社新書)。

戦費の調達でも、董とヘボン夫人の英語塾で同窓だった高橋是清の公債発行に、ロンドンのロスチャイルド家やバース銀行ロンドン支店が米国クーンローブ商会のヤコブ・シフらと共に尽力したことは、拙稿「今日に繋がる『高橋是清自伝』3つのエピソード」に書いた。

逆に日本も14年8月15日、ドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した。ドイツが租借する山東半島の良港、青島・膠州湾を陥落させたのは日英連合軍だったし、英国の要請に応じて地中海に駆逐艦を派遣し、マルタ島を基地として連合国側艦隊の護衛も行った。

しかし18年に大戦が終わると、米国は日本の更なる台頭を懸念して日英分断を工作、21年からのワシントン会議で日英米仏の四ヵ国条約を提案した。同床異夢の四ヵ国条約が機能するはずがなかったが、幣原喜重郎全権はこれを受け入れ、23年8月に日英同盟は失効した。その後日本は孤立化に向かう。

以上の通り日英同盟は、両国が清と韓国に持つ権益に言及するなど、120年前の時代を反映していて現代にはそぐわない。が、目下の東シナ海から南シナ海まで、すなわち尖閣、台湾から豪州に至る地域は、北京が力づくで現状を変えて権益を得ようとしている状況に置かれている。

トランプが破棄するまで米露を縛ったINF条約を尻目に、北京がせっせと増強した中距離核戦力はグアムや沖縄や日本本土に向けられている(拙稿「バイデン政権は『核態勢見直し』で曖昧戦略の継続を」)。3000〜5000kmとされる射程を考えれば、台湾は勿論、豪州もそれに入る。

この影響をもろ受ける日本、台湾、豪州そして米国が、個別の同盟を四ヵ国同盟に進化させて、各国国民の生命財産、主権や領土や自由などが侵されるような場合に協同して対処する意思を表明することは、係る事態に立ち至ることを抑止する上で極めて有用ではなかろうか。

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現在のイギリス・ロンドン _ultraforma_/iStock