「コリア・ヘラルド」は「A・フィッチは率先して中国や韓国の抗日闘争を支援した」とし、以下に続く。36年9月には南京YMCAの事務局長に任命され、27年間活動した上海を離れた。その1年余り後、南京を占領した日本軍は、軍人、民間人を問わず大規模な虐殺を行った。
(前編はこちら)
南京でA・フィッチは、シーメンス社支店長ジョン・ラーベや宣教師で南京大学教授のマイナー・ベイツらと共に安全地帯を設け、そこに国際委員会を結成して、南京で起きている悲劇を世界に知らせ、日本軍の残虐性を明らかにした。
第二次世界大戦中、A・フィッチは重慶とビルマを結ぶビルマ・ロードの輸送活動に参加した。また、情報を米国戦略サービス局(現在のCIA)に伝えて、中国への侵攻作戦にも協力した。44年にはYMCA事務局長として蘭州に赴任し、1945年の終戦とともに退任した。
A・フィッチの妻ジェラルディンも朝鮮独立運動を支援した。彼女は42年2月にワシントンで開催された「朝鮮人自由会議」に参加、「ニューヨーク・タイムズ」紙などは、朝鮮独立運動や大韓帝国の活動、日本による朝鮮の不法占拠などについて広く報道した(以上、「コリア・ヘラルド」)。
徹底した反日ぶりだが筆者にはこの夫妻の行動が、これも長老派宣教師の子として山東省で生まれ、後にタイム社を創立したヘンリー・ルースやルーズベルト大統領に後援されて、米国での反日親中活動に勤しんだ蒋介石と宋美齢のそれとダブる。
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さて、チャーリーと孫文の出会いは広州蜂起の前年1894年だ。珠江デルタの農村に生まれた孫文も12歳で兄の移民団に加わりハワイに渡った。17歳の時に会衆派教会の洗礼を受けて88年に帰国、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学び92年に卒業してマカオで医師を開業する。
だが西医書院の科目が開業基準に満たないと判り広東に戻った孫文は、反清の上書を李鴻章に手渡すことを思い付く。そして天津に向かう途中の上海で、彼が入っていた秘密結社「三合会」とチャーリーの「潮州幇」が同系統だった縁で、二人は出会う。
以来、チャーリーが死亡する18年まで、孫文は資金などの多大な支援を彼から受ける。清政府に追われる孫文は1897年、ロンドンでの危機を間一髪免れて日本に向かい、宮崎滔天や大隈重信らの庇護を受けるが、その後も中国各地で暴動を計画しては失敗を繰り返した。
その間もチャーリーは新組織「同盟会」の出納記録や党員名簿を保管し、収入を組織に注ぎ込んだ。米国でチャーリーを庇護したジュリアン・カーは、経営するメリヤス会社を世界最大にし、民主党副大統領候補になった。06年に渡米したチャーリーは、カーからの2百万ドルを同盟会に収めた。
チャーリーの長女靄齢は米国留学から帰国した10年、孫文の秘書となる。妻がありながら孫文は靄齢に求婚してチャーリーの猛反対に遭う。靄齢は14年に横浜で孔祥熙と結婚するが、孫文は次女慶齢に乗り換えて15年に東京で結婚する。宗家の資金が目的であったことも否定し難い。
孫文と蒋介石(1887.10ー1975.4)の関係を百科事典は、浙江省奉化県で生まれた蒋が寧波の学堂に学んだ06年に孫文を知った後、07年に保定軍官学校に入り、翌8年の日本の振武学校留学中に東京で孫文と会い、同盟会に加入したなどとしている。
が、『宗家王朝』には「08年初め、友人でもあり兄貴分でもある陳其美に付き添われて蒋は同盟会に赴き、この革命団体に迎え入れられた」とある。蒋と同郷の陳は、上海の絹織物工場で働いていた頃「青幇」に入り、孫文の取り巻きの中で最も活動的で才覚のある人物だった。
蒋は日本留学中も頻繁に上海と往来し、陳に手を貸して多くの武装強盗や殺人事件に加わり、警察の記録書類に名前を残した。こうした武装襲撃事件は、革命派と秘密結社のゴロツキとが互いに判別できぬような形で結びついて行われた。
陳其美は16年5月、袁世凱の刺客に殺されるが、蒋は其美の甥、果夫と立夫の兄弟を庇護する。兄弟はその後、個人的にも政治的にも蒋の近くで良く働き、陳一族を宋一族に次ぐ中国第二の大家族にのし上げてゆく。
陳其美や蒋介石の仲間の一人に、後に「青幇」の頭目になる杜月笙(1888.8ー1951.8)がいた。杜は20年代から30年代に掛け、張嘯林、黄金栄(あばたの黄)と上海暗黒街の三大ボスとして君臨した。杜の親しい友人の中にはチャーリーや米国帰りの靄齢もいた(以上、『宗家王朝』)
つまり孫文と彼を後継した蒋介石は、上海「青幇」のボス「大耳の杜」を介してもチャーリーとその一族と交流があった。つまりはチャーリーの「商務印書館」の前身「美華書館」の責任者F・フィッチの息子A・フィッチが、南京から蒋を敗走させた日本軍に大虐殺の汚名を着せる片棒を担いだのだ。
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A・フィッチが南京で何をしたかは、東中野修道の『南京事件 国民党秘文書から読み解く』(草思社)に詳しい。同書は、大虐殺捏造の嚆矢を日中国交回復の72年に朝日記者本多勝一が上梓した『中国の旅』と断じ、翌73年に『戦争とは何か 中国における日本軍の暴虐』が発掘され、発表されたとする。
『戦争とは何か』は38年7月に「マンチェスター・ガーディアン」上海特派員のH・ティンパーリが、南京で一部始終を目撃した匿名欧米人が書いた日本軍の殺人・強姦・略奪・放火を告発する「手紙」と「メモ」を編集して、ニューヨークやロンドンで出版した。
後に匿名欧米人が国際委員会のベイツとA・フィッチと判り、同書の評価が高まった。が、東中野は日本軍の暴虐を東京裁判でも証言したベイツが「中華民国政府顧問」だったとの記述が、エール大所蔵の南京関係文書の、彼を顔写真付きで紹介した新聞の切り抜きから見つかったと暴露している。
エール大所蔵資料からは、ベイツ作成の履歴書の「ティンパーリの本の、第一章と第二章はジョージ・フィッチが書いたものだが、18頁から20頁は私が書いた。第三章、第四章a、付録Fもまた私だ」との記述も発見された。
ところで、37年11月17日にP・ミルズ宣教師が提案した南京城内への国際委員会と安全地帯の設立は、8月の第二次上海事変でジャキノ神父が設けた「ジャキノゾーン」の模倣だが、南京のそれが役に立たなかった理由は、拙稿「アフガンの安全地帯と日中戦争当時の中国の安全地帯」に書いた。
国際委員会にはL・スマイス南京大教授、同大ウイルソン医師らも加わった。が、彼らは国民党中央宣伝部の開くお茶会で、また「ニューヨーク・タイムズ」のT・ダーディンや「シカゴ・デイリーニュース」のA・スティールら記者は朝食会や会見を通じて、同部に篭絡されていた。
南京事件捏造の中身については良く知られているし、紙幅の都合もあるので、記者らが南京陥落3日後の12月15日に『戦争とは何か』の一部になるベイツの「レポート」を手に、電力のない南京から上海の国際租界に向かって各々第一報を送ったことまでとしたい。
さて、南京事件研究の第一人者東中野も、A・フィッチと蒋介石らとの関りについては「まだ十分に分かっていないが、彼の妻(*前出のジェラルディン)が宋美齢と親友の間柄」であり、「南京大虐殺を伝えるために米国に講演旅行にも出かけていた」とするにとどまる。
だが実は、A・フィッチは南京の出来事を捏造する5年前の天長節に虹口公園で起きた爆弾テロにも加担していた人物であり、父親のF・フィッチも、孫文と蒋介石の妻の父で孫文の後ろ盾だったチャーリー宋の「商務印書館」の前身「美華書院」の責任者として、彼らと浅からぬ因縁があったのだ。
以上縷説したことは、ラス・カサス(1484ー1566)やザビエル(1506ー1552)を先駆とする宣教師が、何に情熱を注ぐかによって、近代史が少なからぬ影響を受けることの事例でもあるだろう。