21世紀の「終末論」とコロナ陰謀説

始まりがあれば、終わりを迎えるものだ。地球に温かさをもたらしてくれる太陽ですら時が来れば、膨張して爆発するという。その意味で、人類の歴史にも終わりの時がくる、という発想は極めて論理的な結論だろう。問題は、その時がいつかだ。

「エジプトの第七の災い」(ジョン・マーテイン作、1824年、Wikipediaから)

聖書によれば、「その日、その時は、だれも知らない」と指摘し、「終末の時」探しをしないように釘をさしている。そのうえで、「ただ父だけが知っておられる」(「マタイによる福音書」第24章36節)という。この聖句は幸いだ。「終わりの時」を誰も知らないとすれば、それこそ大変だが、少なくとも神は知っていると諭しているのだ。

エンドレスの物語を想像してほしい。誰がその物語を読み出そうとするか。終幕、終章があるから、人はそれに向かって読み始める。同時に、終わりの時を知っている「神」探しが始まるわけだ。人類の歴史に終わりを提示した神学者、哲学者はその意味で知恵者だ。

ただし、ニヒリストは、「ひょっとしたら神も終わりの時を知らない」と言い返す。近代最高峰の神学者でもあったローマ教皇ベネディクト16世はこのニヒリズム(虚無主義)の台頭を恐れてきた。人類の歴史から終末論を奪い、全ての事象の価値を否定するからだ。

それでは21世紀まで継承された終末論を簡単に振り返ろう。イスラム教では遊牧民べドウィンが定着し、高い塔を作り出したならば、終わりの時が近いことを知らなければならないという。21世紀のアラブ諸国を見渡すと、べドウィンたちは定着し、多くの高い塔を既に建てている。ということは、終わりの時が既にきていることになる。

ユダヤ教の場合、世界に散らばったユダヤ人が再び集まり、国を建設すれば、それは終末の時(主が降臨する時)と信じている。イスラム教と同様、ユダヤ教でも終末が到来していることになる。イスラエルは1948年、建国したからだ。ただ、超正統派ユダヤ教徒たちは1948年に建国されたイスラエルを神の国とは考えていないから、彼らにとって「終末」はまだ到来していないことになる。

そしてローマカトリック教会の場合、「その日、その時は誰も知らない」というマタイの聖句を持ち出して、終末の時を知ろうとする努力を放棄してきた。プロテスタント派のキリスト教の中には、聖書に記された数字を独自に計算して弾き出した「終末の時」を伝えるグループもある。

マヤの暦から「ファテマの預言」まで人類の終わりを記した文献や預言は少なくない。ファティマで降臨した聖母マリアは「1960年」を歴史的グレート・リセットの時と暗示するなど、示唆に富んだ預言があるが、100%的中した終末論はこれまで出てきていない。このコラム欄で「なぜ「予言」は時に外れるのか」(2019年1月13日参考)というコラムの中で、神の預言にも当たり外れがあるという点を強調した。

「イエスはユダヤ人の王となり、滅びることのない王国を地上に建設される」(イザヤ書9章)という預言と、「彼は多くの人々から迫害される」(イザヤ書53章)という2通りの全く異なった預言がある。それも「前者の神」と「後者の神」は同一だ。実際は後者の預言が成就したことは人類にとって不幸だった。その責任は神にあるというより、人間たちが「イエスが誰か」を理解できなかったからだ。

新約聖書の「ヨハネ黙示録」では、人類の終わりの時に生じるであろう世界の実態が記述されている。具体的には、悪が滅び、善の世界が始まる前に生じる大惨事などが描写されている。俗に「アポカリプス」(Apocalypse)の世界だ。ただ、「アポカリプス」は“世界の終末”とか“大惨事”といった意味ではなく、「覆われたものを外す」といった意味の古代ギリシャ語から由来している。

2019年秋から広がった中国武漢発の新型コロナウイルスのパンデミックを、神が約束の地・カナンにモーセとイスラエルの民を導くためにエジプトに下した「十災禍」に匹敵していると説明する聖職者がいる。ここにきて、世界の陰の支配者が人類を滅ぼすためにウイルスを放出しているといった陰謀説まで流れてきた。

先述したように、人類に終末論が存在することは論理的な結論であると共に、人類の存在の意味と価値を付与するという点で重要だが、フェイクニュースや陰謀説が氾濫する21世紀に生きる人類にとって、これまで以上に「終末の時」の印を読み取ることが難しくなってきている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年12月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。