不惑を超えて

今年9月フェイスブックに投稿した『一目置かれる人』で私は「誰もが一目置く人物になる為に、40歳までが勝負の期間と心得ておくべき」等と指摘したわけですが、ミサオ ハットリ様と言われる方から「60には、寂しいですが」とのコメントを頂きましたので、本ブログにて私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。

人間、40歳を過ぎて不惑を超えますと、一つの方向性というのが定まってきます。それは、天から与えられた使命がおぼろげながら自覚出来、それに向って進むということです。他方、人間は死すべきものとして此の世に存しています。老いにより色々な所で、自分の体力・気力・知力が自然と萎えて行かざるを得ないわけです。その中でその方向性に沿い着実にその道を歩んで行くのです。その時の心情としては淡々とした気持でいるべきでしょう。そういうものが人間であり生物であって、ある意味それは諦念の類でなく自然の成り行きに従い、それに抗することなく淡々と受け入れて行けば良いのです。

一年半程前、私は『老いて輝く人』と題したブログの結語として、次のように述べておきました――人間年を取れば取る程に、その時節相応の形で「生」を全うして行かねばなりません。50代では50代の、60代では60代の、80代なら80代の生き方を模索して行くということです。ただ、幾つになっても、精神的な若さは常に保ち続けなければなりません。

吉田松陰先生は、その遺書『留魂録』で「人間にも、それに相応しい春夏秋冬があると言える」と言われています。「四時の序、功を成す者は去る」と司馬遷も言うように、春には春の役割が、夏には夏の本分があります。夫々の季節が自分の役割を終え静かに去り行くが如く、人間その役割を終え移り行くものだと私は思っています。

老子は、「功成り名遂げて身退くは天の道なり」と言います。退くとは、夫々が今向き合っている仕事を離れ、夫々なりにまた新たにやるべき別の仕事があるということです。これ正に天意であって、天の意思を淡々と受け入れて行くことが必要ではないかと思うのです。

安岡正篤先生は、『菜根譚』の言葉「人を看るには只後半截を看よ」を引用しながら、「誠に人の晩年は一生の総決算期で、その人の真価の定まる時である」と言われています。年を取るに連れ、その人の地金が露わになってくるということで、我々は幾つになっても如何に生くべきかを問い、学び続けねばなりません。

淮南子』に、「行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」とあるように、「化す」というのも人間としての在るべき姿です。何歳になろうが常に変身し自らを知行合一的に向上させて行き、より良きもの・より良き方向に日一日と前進して行くのが、天から課せられた使命だと思います。「壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」(佐藤一斎)、我々人間は死するその時まで学び続けるべきなのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年12月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。