都響スペシャル『第九』

都響の第九は最終日のサントリーホール公演を鑑賞。客席はほぼ満席。他のオーケストラでは前半にオルガン演奏やベートーヴェンのオペラ序曲が演奏されることがあったが、都響はシンプルに本編のみ。それが大変な名演だった。ソプラノ小林厚子さん、メゾソプラノ富岡明子さん、テノール与儀巧さん、バリトン清水勇磨さん、二期会合唱団、コンサートマスター矢部達哉さん。

12月20日の定期でサッシャ・ゲッツェル氏の代役で登壇した音楽監督の大野和士氏が、第九では準メルクル氏の代役で再び登場。2021年の都響は大野さんととても濃い時間を過ごしたはずだが、最後の月まで充実したパートナーシップを見せた。多くの方が指摘するように、大野さんと都響のサウンドは、特に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」以降、変化したようにも思える。先日のショスタコーヴィチでは、明らかにオケの側が変わったと思えたが、第九では反対にマエストロが変わったという印象を得た。

オケを背景にして立つ姿が、少し前と比べて別人のようだった。自然体の威厳があると同時に若々しく、背筋が真っすぐで、音楽も決然としていた。以前は、無限の想像力の中で時間のない次元を生きているような不思議さがあった(私の印象)大野さんが、地上に杭を打ち、時計の針を進める覚悟をした人に見えた。そこで今までにない父性のようなものも感じられた。

第一楽章の「無への骰子一擲」のような響きから、都響は神秘的で高遠なサウンドを響かせた。ベートーヴェンだからパワフルであればいいというのでもなく、都響は一貫して都響の音を保つ。日本のオケでもかなりコンセプチュアルな理念を持っていると思う。高級なツイードのように繊細で上質な糸から成り立っていて、簡単にヨレたりしない。指揮者がイメージしない音は一切鳴らさないので、ある種の指揮者にとっては、オケから鏡を差し出されて自分の裸の全身を見つめる結果にもなる。

どの楽章のどのフレーズにも、軽い衝撃がある。いま産まれたような無垢な響きで、こちらの記憶の中で鳴っているものよりも、冴え冴えとしていて美しい。複雑味を隠しながらも、純粋無垢で、高貴で上品なオーケストラ・サウンドになっている。

大野さんと都響には、確かに冬の時代があったように思う。それが終わった。どちらかが譲歩したのではなく、しかるべき瞬間に起こったケミカルの連続によって新しい均衡が生まれたと思えた。シンフォニックなものの中にも、オペラ的な面白さがあって、第九では意外な箇所に先取りされたモティーフが登場する。他の指揮者では聞き逃してしまうような箇所も、大野さんの指揮では魔法のように浮き彫りになる。第九の4つの楽章が物語のようにオーガニックにつながっていることに改めて感心した。

「歓喜の歌」の合唱は、思いのほかゆったりとしたテンポで、膨大なモティーフの積み重ねがフィナーレ楽章で報われ、満開の花が咲いたようになった。ソリストも健闘。バリトンの出だしが緊張気味だったが、途中から持ち直した。二期会合唱団は人数も多く、充実した響きだった。

コロナ禍でも多くのコンサートがあり、その時折に演奏される音には、無意識のうちに「この時間に演奏されているということのジャーナリスティックな価値」を求めるようになった。
都響とマエストロ大野の第九からは、これまでのオケと指揮者の歴史が脳裏をめぐり、ここから未来に解き放たれる素晴らしい音楽を想像した。

都響はひとつのパーソナリティであり、一言では言えない個性を持っている。個性というより「ただひとつの正解」を持っているのだ。世界のどのオーケストラにも似ていない。改めてそのことに衝撃を受けた。簡単に譲歩しないことで、音楽監督とも高水準のパートナーシップを築いた。第九の余韻とともに、オケと指揮者の映画のようなストーリーが頭をめぐってしまった。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年12月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。