これまでのコロナ騒ぎから考える、緊急ということとその責任の取り方 --- 宮本 優

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昨年の夏あたりからこれまで幾度か新型コロナに関する投稿をしてきました。そして、おそらくこれが最後になるのではと思っています。

というのも、前回にも書きましたが、もう実質的にコロナ騒ぎは第5波の収束で終焉を迎えたと思っており、その後3か月間ほどの経過も大体思った通りだったため、コロナの話題ももう終わりだなと感じるからです。

前回はまだ第5波が縮小する局面で、致死率に関しては途中経過での計算として0.33%と示しましたが、この値は最終的に0.35%程度になりました。新しい株が新しい波を形成しているという森田洋之先生のお見立ては私にも妥当に思えます。

と考えると、現在進行中の第6波はオミクロン株の波になっていき、現在分かっているその感染力の強さと症状の軽さを考慮すると、第6波の致死率はおそらく1-2桁は小さいものになるでしょう。飲み薬などの登場もそれをサポートします。経験則からは第6波のピークは2月初頭あたり、すべて収まるのは4月くらいまでかかると思われますが、インフルエンザに比べても低い致死率の疾病となり、当然ながらそれに対する対策もそれに見合ったものにして欲しいと思います。

本心から言えばもうすべて何もしなくてよい、罹ったかなと思えばかかりつけ医に行くだけ、と私は感じていますがいかがでしょう。今一番心配なのは医療ではなく大学入試ですね。受験生のことは本当にしっかり対処してほしいです。

せっかくなのでこれまで書き続けてきた東京都の新規感染者の対数グラフを示しておきます。第5波の様子、第6波の想像図を皆さんも考えてみていただければ幸いです。

前回、罹患者はあまり増えないだろうと書きましたが、オミクロン株の感染力は強烈なようなので第5波を超えるくらいの人数になるかもしれません。罹患者数というよりもPCR検査の数の上での能力の限界を見るようなものになるかも。でも誰も深刻な病状にはならない、重症用の病床はガラガラ、ということです。そして拡大期は2か月ほどで終わり、これは2月半ばくらいまででしょう。推測も含まれていますが、今のところ誰一人としてオミクロン株による死者はいないのではないでしょうか。

少なくとも沖縄と東京ではこのことを確認できると思います。致死率が1/10になっても、感染者が100倍になれば医療崩壊するという意見を聞きますが、それは無症状で働けるのに働かせることができないという医療関係者に対する制度の問題です。致死率が最後まで0だとは思わないものの、逆に誰もまだ亡くなっていないという事実は希望があり、かつ、重いものだと思います。

さて、今回考えたいのは、これまで2年間ほど、行われてきたコロナ対策に関する振り返りです。様々なものがありましたが、対策の効果とそれによる痛みが逆転してしまい、効果があまり見られず社会的な損失が甚大なものが多かったように思います。

「緊急事態宣言」という言葉がよく使われ、この言葉の基、単なる行動制限を超えた措置が行われてきました。「緊急」ってどういう意味なんでしょうか。緊急車両っていう言葉があります。救急車は緊急車両で、赤信号でも進むことができる超法規的な存在(?)です。赤信号を守って渋滞でもおとなしくしていたので搬送していた患者が亡くなってしまいました、ということが仮に起きれば責任問題になるでしょう。

例えば、「緊急」事態なのに効くかもしれない薬は半ば無視されました。安全性が十分に担保されていたのに、です。もし後からこれらの薬は有効だったと判明したら、その薬を使わせなかった人は責任を負わなければならないのではないでしょうか。これに対しては、薬やワクチンに対する緊急承認の仕組みを作る、といったアナウンスがありましたが、仕組みがない状態で必ずしも法律を遵守できないけれども人命のことを考えて措置を行う、ことが「緊急」なのではないんでしょうか。

制度を作るのは良いですが、これも結局は責任回避したいということなのか、と感じます。薬だけではなく、緊急事態なのに全く緊急な措置を行わない無責任な事例が多かったと思います。

別に誰かをつるし上げろ、とか言いたいわけではありません。しかし、本当に緊急なときに、冷静に物事を判断しそれに応じた行動ができなかったことは、非常に大きい問題であると思います。この2年間ほど、いろいろと残念なことが多すぎました。我々は各々がしっかり反省しないといけないでしょう。

2回目の投稿で私は「科学的な思考とは、どうしても恣意的な判断やミスを犯してしまう人間をサポートし、いかに正しい道を導けるかという方法論」である、と書きました。中立な思考を行い正しく結論する、そのことが担保される条件下において、科学というものに一種の信頼や威厳というものが備わると言えるでしょう。そうした威厳(お墨付きですね)を悪用されている、と私には見える例が多くなってきています。

電車の吊り広告などにたまに見られる「トンでも」な類の商売から、原発、温暖化、そして今回のコロナの話もそういった科学の恣意的な利用が残念ながら目につきます。責任の多くは科学者側にもあるでしょう。研究者という肩書きの方は、自分が本当に中立なのか、誰かに加担したり知らない間に利用されていたりしないか、胸に手を当て常に考えて行動する責務があります。

最後は、コロナに関する私の最初の主張をもう一度書いて、終わりにしたいと思います。

コロナ対策を事実上決定している専門家とされる方々の感染モデルは最初から破綻していることが素人目にも明白で、その後も改善の様子はありません。ウイルスの自壊説でも山火事モデルでも何でもよいのですが、このような現象論からのフィードバックを行うことのほうが遥かに有益です。

責任ある立場の人は、中立な目で見て、何が正しいのかを見抜き、間違いは間違いと認める勇気を持ち、迅速かつ毅然とした行動で社会を引っ張るべきです。私にとっては、そこに資することが科学の大きな役割の一つなのです。

宮本 優
固体物理の研究者(実験系)、みなし公務員。
趣味はピアノ演奏とラジコン。