『情報』を制する事が、民主的に優位に運ぶ最善策である事は疑い様が無い。『情報』は時には世論を動かし、国家権力である3権(立法・行政・司法)をも動かす力を持つ、即ち国家権力と並ぶ、時には上位になるポテンシャルがある。ならば、『情報』を扱う担い手であるメディアには、権力としての監視・牽制がなければ民主主義は独裁へと向かう危険性がある。
これは『言論の自由』を制限するという話では決してない。むしろメディアを監視・牽制する構造は、『言論の自由』を適切に保護する事にも通じるのだ。
現在のマスに属するメディアの偏向度合いは目に余るものがある。その実態はネット空間との論の幅を比較すれば明らかである。そこにはある一定の力、意思すら感じざるを得ない。
マスメディアの偏向疑惑が懸念される状況下でCLP問題や意味不明の報告と思われるコンテンツ攻撃など、一部の政治勢力・活動家などの勢力の動きが疑われている。『情報』の扱いに金の流れが伴った工作の懸念である。
歴史的には外交的妥協を模索する政府を、弱腰と非難し煽り続けたのがメディアであり、それに国民が扇動され好戦的な世論が形成され、クーデターも含めた実力行使もあり軍部が政府を動かし開戦に向かった。
歴史に学び、現状の偏向実態を鑑み、今こそ『情報』の担い手『メディア』を監視・牽制する法制度に舵を切り、新時代の民主主義の権力構造を模索するべきだろう。
ネットメディアの処方箋
ネットの特性上、『情報』の担い手としては、実は最も公平で両論併記、各論議論が可能な言論空間なのである。誰でも参加ができるハードルの低さ、尺の制限の緩やかさ、双方向性である事などが要因だろう。逆に弊害として、玉石混交である事、情報量の巨大さ故エコーチェンバーなどの受け手側の意図せぬ偏向による勘違いを生むリスクは高く、単独メディアの中で公共性を担保する事は困難である。
従って、公共性は政府発信のオープンデータなど裏付けが確かなものに限られるだろう。一方で公党や政治組織の情報発信は、より深い情報を対案との対比で示す事が可能なメディアとして有効である。
それ故、CLPが理念として掲げていた、公共性を民間のネットメディアに求めるのは困難である事を前提とするべきだろう。フェイクニュースという定義も立場によって都合よくレッテル貼りする傾向も強く、対峙すると言ってもその事で公平性を示している訳では無い。
そしてどの様な色が着いているか受け手が確認できる必要があり、その資金構成と編集方針を透明化し、資金やニュースソース、解説の方向性を明らかにする必要がある。ネットメディアであろうとも相応のお金はかかり、お金には大なり小なり色が付くのだから、金の流れ、構成を明らかにすることは透明性担保に重要な要素なのである。
つまり、資金の背景を明確にし、編集方針に加えて、編集者の思想信条も分かる様なコラム掲載などを義務付けし、どの分野でどちらの方向にどれだけ傾いているのか、透明化した上で、視聴者側が選択すれば良い。公平でなくて良い、偏向は当然、情報受信側がその事実を把握しておれば良いのである。そして、公開情報に偽りや、隠ぺいがあった場合に厳しい罰則が伴う法規制が必要だろう。スポンサーもその構造で集まる視聴者である前提で考え、企業イメージに色が付く事を理解して広告出稿するべきだろう。
ネットメディアはマクロで見ると実は最も健全化に向かうエネルギーを持っている。それもかなりのスピード感で。実は、ほんの数年前ネットの言論空間はかなりのレベルで左傾化していた。少し真っ当な発言をすると袋叩きにされる程酷い状態であった。それが現在はかなり改善されて両論、ウイング広い言論空間になっている。
これらの特徴を生かし、主要メディアに成長させるべく、制度改革を進めるべきだ。
地上波メディアの報道に関する処方箋
ワイドショーなども報道と位置付けた上で、ネットと同様に情報の傾き度合いの透明性が必要だろう。残念ながら、現在の地上波メディアは公平な情報、両論併記などの放送法の大原則を守っているとは言えない状況だろう。それなのに、公共性や公平性を掲げられているのは寡占状態が故であろう。
政府を監視し糾弾する事がメディアの役割との思想、筆者に言わせれば前時代的な思想の元、批判を目的とする批判に終始し、都合の悪い情報は尺の制限で省かれる。結果として、極めて偏向した情報になり、視聴者の正しく、客観的な情報を、様々な視点での議論を通じて、即時性と簡易性を伴って取得する環境を破壊している。そして問題が顕在化しても、寡占状態が故責任を取ることはなく、改善も為されない。
視聴率至上主義も、危機を煽り、政府を悪とする陰謀論を匂わせるエンターテイメントで部分的に稼げるだろうが、その事自体が若者のテレビ離れを促進させる事になっていると考えるべきだろう。
しかし、即時性と簡易性という長所は捨て難く、その事を活かしつつ、国家としての公共性や公平性を一定程度実現する再構築が必要だろう。
その為に、限られた国家資源である電波を使用する前提として、資本構成は外資を制限する必要があるだろう。情報を国家の権力の一つと位置付け、より世論形成力が強い即時性、簡易性を持つメディア、ある意味サブリミナル的な効果すら持てるメディアとして当然ではないだろうか。現行法制度にも存在するのだが、より厳格に、違反や虚偽、隠ぺいに対して厳罰化は必須だろう。
その上で、政府発信のコンテンツ、公党発信のコンテンツを明確に一定枠設ければ良い。それに関わる費用は一定程度税金で構成しても良いだろう。
ぺーパーメディアは生き残れるか
筆者の持論は、ペーパーメディアを決してなくしてはならないという事だ。もちろん、今の形態が良いという訳では無い。
ペーパーメディアの受け手側としての最大の利点は、全体感のイメージ把握、物事の重要性の大小把握、概要から詳細への検索などを極めて効率良くできる事だ。この同様の機能を他のメディアに求めるのは実は困難なのだ。
一方で日本の国益を損ねる国際問題を自ら火の無い所に煙を立てたのもこのメディアであり、日本の場合、電波系メディアの資本構成に漏れなく加わっている事も一旦偏向すると歯止めがかからない構造である事も大きな問題であろう。
更に、地方によっては地方紙の独占状態にあり、一定の方向性以外の『情報』が得にくい状態が発生している。これは『情報』を選択する自由の侵害に他ならない。
これらの問題を解決するには、まずは資本の独立性を担保する事だろう。同時に整理統合を進め、様々な資本の参入により情報のバラエティ性を高めて寡占状態を解消する。
そして個々の情報取得の選択性を高めるために、1紙だけでなく、複数紙のクリッピングをサービス化する事。個人の意思、思考で自動的に各紙から情報をセレクトし、パーソナライズされた紙面をオンデマンド配信する。技術的には各紙紙面をスキャニングOCR処理し選択した上で自動組版する。オンデマンドプリントが必要な場合は、郵便局インフラを利用しサービス化すればよい。著作権問題もクリア出来ない訳が無い。
更に隠し味として、偏った設定を個人がしても、ある一定レベルの公平性を保ったセレクトをシステム側で自動設定すれば、嗜好性を保ちつつ、両論併記、公平性のある対案も提供出来、地方インフラの問題での情報格差も解消される。
結論としてペーパーメディアはその利点を存続させる為に生き残らねばならない。その為に、デジタル化、サービス統合、資本再編は不可欠だろう。
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