自己肯定感というもの

昨年11月フェイスブックに投稿した『敬するから恥ずる』に対し先月14日、石原様と言われる方から『北尾先生、安岡先生の言とともに深く共感しますが、一方で自分を含めた現代の若者は「自己肯定感」があまりに低いと感じます。そこから生ずる承認欲求がSNSへ向かうからSNSが流行っているのではないかと推察します。「恥」と「敬」、この陰陽の考えに中庸あるいは前提として自分への適切な(されど慢心には至らない)自信がなければ「恥」も単なる自己否定になり、「敬」も自己の内発的発展に寄与しない単なる憧憬、嫉妬になる恐れがあるのではないかと考えました』とのコメントを頂きました。

『現代の若者は「自己肯定感」があまりに低い』ということで、以下私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。私は一年程前『人事を尽くして天命を待つ』と題した投稿の中で、次のように述べました――悲観的な思考を打ち破ろうとしたら、それは私が何時も言うように「天に任せる」「運に任せる」ということです。「任天・任運」は人生を良き方に向かわせるべく、大切な考え方であります。何か上手く行かないことがあったとしても、「これは天が判断したことだから、くよくよする必要なし」と受け止めるのです。「失敗でなく、こうなった方が寧ろベターなんだ」とか、「将来の成功を目指しその失敗を教訓にしなさい、という天の采配かもしれない」とかと、考えれば良いのです。

先ず何よりも、悲観的にものを考え自分を否定してしまう姿勢を変えて行かねばなりません。そして、ポジティブに生きるということを染み付かせねばなりません。そういう意味で唯々自分がやるべくは上記の如く、「人事を尽くして天命を待つ」そして「任天・任運」ということでしかないのです。私は之こそが、自己肯定感上の大前提だと思っています。

江戸時代の名高い儒学者である佐藤一斎が言うように、「人は須(すべか)らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」(『言志録』第10条)ものです。

天は此の世のあらゆる物を創り、人智では計り知れぬあらゆる知恵を結集し素晴らしい人間という存在を創りたもうたのです。一々の事の結果に過度に拘ってはなりません。此の世のあらゆる出来事は、皆天の配剤であります。我々人間は、人の人たる所以の道を貫き唯ひたすらに努力し続けて、天が与えたもうた自分の役目を己の力で一生懸命追求し、その中で自得して行くということに尽きるのだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年2月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。