六然の境に至る

私は郷学研修所・安岡正篤記念館(@noushikyogaku)さんをフォローし、そのツイートを日々目にしていますが、その中で先の日曜日、明の崔後渠(さいこうきょ)が作った「六然訓:りくぜんくん」をリツイートしておきました。

・自處超然(ちょうぜん)自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。
・處人藹然(あいぜん)人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。
・有事斬然(ざんぜん)事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。
・無事澄然(ちょうぜん)事なきときは水のように澄んだ気でおる。
・得意澹然(たんぜん)得意なときは淡々とあっさりしておる。
・失意泰然(たいぜん)失意のときは泰然自若としておる。

上記六然は、基本分かり易いと思います。例えば得意澹然と失意泰然、之は対になっています。ちょっと上手く行ったら燥(はしゃ)ぎ回るようなことは一切せず、また得意の絶頂になる事柄であれば感謝をし謙虚にいるということです。逆に上手く行かなくて失意の時になったらば、慌てふためくのではなく落ち着いているということです。

唯よく人が出来ぬ一つは、「事なきときは水のように澄んだ気でおる」ことだと思います。此の無事澄然は、常に冷静沈着に事に対応する心構えが出来ているということです。之と対を成す有事斬然とは、「何か問題があるとき、うろうろしたり、うじうじせず、活気に満ちきびきびしていること」であります。

何れにせよ六然訓とは、如何なる時も余り喜怒哀楽でバタバタとせずに、全ては天の配剤によるものと思い、兎に角落ち着いて淡々としている、といったことを説く教えであろうかと思います。
あるいは六然ということは、人物が出来上がった結果とも言えましょう。人物が如何なる形でつくられて行くかと考えてみるに、その要諦は次の3つのことではないかと思います。

先ず第一に、「敬と恥」という言葉がありますが安岡先生は「人の人たるゆえん」として此の言葉を挙げておられます。次には安岡先生の言われる「東洋哲学の生粋」、つまり「尽心」「知命」「立命」を学び自己維新せねばならぬということです。そして最後に、一生涯修養であり且つそれは知行合一的修養でなければならないという認識を持つことです。

上記人物をつくる3つの要諦を押さえ、六然の境地に心身を置くが如き出来上がった人物にこそ、私は指導者になって貰いたいと常々思っています。経営者であれ政治家であれ、それなりの人物がトップを務めることが求められます。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年2月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。