都市開催オリンピックの限界:オリンピック憲章への疑問符

国際オリンピック委員会公式サイトより

オリンピック憲章には、「すべての競技はオリンピック競技大会の開催都市でおこなわれなければならない」とある。

38.オリンピック競技大会の開催

なぜだろう?

オリンピック憲章に9つある「根本原則」を読むと、「7」にその理由らしきものが書かれている。

7. オリンピック・ムーブメントの活動は、結び合う5つの輪に象徴されるとおり普遍且つ恒久であり、五大陸にまたがるものである。その頂点に立つのが世界中の競技者を一堂にあつめて開催される偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会である。(太字は筆者)

確かに、「世界中の競技者を一堂にあつめて」と書かれているが、「ひとつの都市に」とは書かれていない。また、理念として「一つの都市に」一堂に集める理由らしきものは、少なくとも基本原則には書かれていない。

オリンピック憲章の細則に戻ると、そこには「冬季競技大会において、(中略)IOCは例外的根拠にもとづいてこれらを周辺国で開催することを許可することができる。」とあるので、多国間開催は「例外的にIOCが認めた場合」にのみ可能であることがわかるが、「39.組織委員会」などを読むと、いわゆる「一つの国の都市開催」を原則としている理由は、IOCが管理をしやすいから、ということになるのではないか。

ちなみに、日経電子版の「オリンピックに都市名が付くのはなぜ?」にはこう書かれている。

「スポーツは国家権力や人種、宗教の枠を超えた自由なものだから、国の影響力を抑えて五輪を開こう」という考え方があった。(太字は筆者)

つまり、「国家開催にしてしまうと、国の影響力が及んでしまうため、都市開催にしている」という理屈のようだ。

しかし、北京オリンピックを観る限り、もはやその理念は形骸化しているように見える。

例えば、中国の前副首相による性的関係の強要を告白した彭帥選手が、IOCバッハ会長と競技を観戦したとする報道も、中国の「疑惑打消し」のプロパガンダにオリンピックが利用されたとする見方が多くみられる。

バッハ会長、彭帥さんと夕食…中国当局から制限受けていないことを示す狙いか – オリンピック オンライン
【読売新聞】 【北京=川瀬大介、パリ=山田真也】国際オリンピック委員会(IOC)は7日、トーマス・バッハ会長が、中国政府の前筆頭副首相から性的関係を迫られたとの内容がSNSの個人アカウントに掲載された女子プロテニス選手、 彭帥 (

また、中国に対する「外交的ボイコット」も、その趣旨に私は賛同するものの、逆説的な意味で「オリンピックの国家間における政治利用」に他ならない。

1984年のロスオリンピックから、「オリンピックは儲かる」ということになったようだが、先の東京オリンピックでは、コロナ禍中ということもあり、インバウンドの経済効果はほぼゼロだった一方、最終的には1兆4530億円もの予算が投入された。

エラー|NHK NEWS WEB

確かに、1964年開催の東京オリンピックのように、「復興の象徴」や「歴史に都市名を刻む名誉」といった「開催都市側のメリット」があった時代はあったし、現在もそのような効果が皆無とはいわない。しかし、それはあくまで「開催都市側のメリット」であって、「平和の祭典であるオリンピック」の理念の外側にある「付帯的メリット」のように思う。

このように、今日のオリンピックでは、「都市開催」に対する弊害は多くあげられるが、利点は「IOCの管理のしやすさ」や「報道機関の利便性」以外思いつかない。

オリンピック・パラリンピックの理念と開催には賛成だ。しかし、開催地の経済的、疫学的リスクを減らし、国家間の政治利用の可能性を下げ、もはや世界がリアルタイムにオンラインでつながる現代において、一都市で開催する絶対的な理由がなくなった今こそ、「多都市分散開催」の議論を提起するときだと考える。

先の東京オリンピックで大変な思いをした日本だからこそ、ここで立ち止まって、「都市開催オリンピック」の現在的な意義と弊害について、世界に向けて議論を提起すべきではないだろうか。