ウクライナ危機にも繋がる18世紀の某偽造文書の話

3年目に入ったコロナ禍にも意外な効用があった。例えば、新聞やTVなどの既存メディアが籠り暮らしの無聊を招いたコロナへの恐怖を煽るからと、ネットに別の情報を求めた人々がそれにすっかり嵌った結果、多くが政治や社会の問題に関する宗旨を変えていることとか。

筆者の同級生にも、新聞は数十年来朝日、TVは久米宏以来「ニュース(報道)ステーション」一筋という強者がいるが、ここ2年程はネットのお陰ですっかり目が覚め、「朝日やモーニングショーのコロナ報道は酷いな」などと頻繁にLINEしてくるようになった。

ところが先日、「長年の洗脳はやはりキツイ」と思わせる出来事があった。ネットフリックスにも嵌っているその同級から、「『新聞記者』を観たが、あれは泣ける」とLINEが来たのだ。TVも紙の新聞も滅多に見ない筆者でも「新聞記者」のことはネット情報で知っている。

東京新聞の望月記者が書いた書籍も、劇場版の映画も、ネトフリのドラマも、そこそこ収益を上げているらしい。彼女を支持する立場の者もあろうし、逆の立場の者がある種の「怖いもの見たさ」でお金を払うこともあるだろう。中身の想像がつくから、筆者はそんな浪費はしないが。

同級は覚醒というより「寝起きのうつらうつら」なのだろう。コロナでは査読論文を読んだりで滅法詳しい。が、森友では17年2月からの国会審議議事録も、18年6月に財務省が公開した改竄文書も、また原英史氏が活躍した加計の国家戦略特区WTの議事録も、読んだことがないという。

つまりコロナ報道では批判する既存メディアの情報を、森友や加計では未だに信じ込んでいるという訳だ。これではプロパガンダに騙されない情報リテラシーを身に付けているとは言い難い。

三省堂の「10分でわかるカタカナ語」なるサイトがある。「プロパガンダ」の説明を読むとこう書いてある。

特定の思想によって個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称です。特に、政治的意図をもつ宣伝活動をさすことが多いですが、ある決まった考えや思想・主義あるいは宗教的教義などを、一方的に喧伝するようなものや、刷り込もうとするような宣伝活動などをさします。要するに情報による大衆操作・世論喚起と考えてよく、国際情報化社会においては必然的にあらわれるものです。

朝日、毎日や東京、そしてその系列TV局による森友や加計での安倍叩きは、この説明を読めば「プロパガンダ」そのものだろうし、その先兵の一人が書いたドラマなど、それを観て泣くのも良いが、飽くまでフィクションとして観られることが前提でないと拙い。

朝日による「プロパガンダ」の最たる慰安婦問題は、吉田清治の講演や『私の戦争犯罪』(83年)が根拠の一つだった。秦郁彦が「詐話」と呼んだ吉田の「強制連行」証言は、96年「クマラスワミ報告」などで国連人権員会に取り上げられ、未だにそれが真実であるかのように世界に信じられている。

国家間に戦争を引き起こす、あるいはそれを拡大させる原因になるほどの「プロパガンダ」や「偽造文書」といえば、20世紀前半に広く流布された「田中上奏文」(「田中メモランダム」とも)が知られている。日本大百科全書(小学館)はこう解説している。

田中義一首相が東方会議の決定に基づいて、1927年(昭和2)7月天皇に上奏したといわれる文書。29年12月中国の雑誌『時事月報』に「田中義一上日皇之奏章」と題して掲載された。満蒙征服と経営について21項目にわたり具体的に述べられている。形式その他から偽書と認定されているが、内容がその後の日本の行動とあまりにも符合するので、国際的に注目され、東京裁判でも取り上げられた。

「東京裁判でも取り上げられた」とは微妙な表現だが、話題に出はしたものの証拠採用はされなかったほどの意味合いだろう。が、戦時中に連合国側の多くの者に真正な上奏文と信じられ、日本に対する敵意が搔き立てられていたとすれば、実に恐ろしい。

『ピョートル大帝の遺書』

長い前置きになったが「偽造文書」の話。目下のウクライナ危機を見るにつけ、国際社会のロシアへの警戒心は根深いものがあり、その歴史的背景には興味が湧く。そこでオーランドー・ファイシズの『クリミア半島』(白水社 15年3月初版)の『ピョートル大帝の遺書』なる偽造文書に関する記述の概略を以下に紹介したい。

英露の経済関係は、クリミア戦争(1853年10月~56年3月)までは概して良好だったが、それでも反露感情は英国民の世界観を左右する重要な要素だった。ほぼ全ての欧州諸国民のロシア観を形成していたのは恐怖心と想像力だったが、英国もその例外でなかった

18世紀にロシアが強行した急激な領土拡張とナポレオンを粉砕した軍事力は、欧州諸国の人々に強い印象を残していたが、そこへ19世紀初頭にロシアの脅威を論じる小冊子、旅行記、政治論文などが欧州各国で次々刊行され、ロシア脅威論が一種のブームとなった。

現実的な脅威や恐怖というより欧州の自由と文明を脅かすアジア的な「よそ者」としてのロシア脅威論が主流だった。著者の想像力が生み出した観念上のロシアは、野蛮で攻撃的な領土拡張主義者で、狡猾かつ欺瞞的に「見えざる勢力」と共謀して西欧諸国に敵対し、浸透する陰謀国家だった。

これらの著者が根拠としていた参考文献の中に『ピョートル大帝の遺書』(『遺書』)があった。反露派作家、政治家、外交官、軍人らが、世界征服を目論むロシアの野望の明白な証拠として、ピョートル大帝(ツァーリ在位:1682-1725)が誇大妄想狂的な国家目標を言い遺したという『遺書』を引用していた。

即ち、バルト海から黒海に至る広大な範囲に領土を拡張し、オーストリアと組んで欧州大陸からトルコを放逐し、東地中海地方を征服し、インド貿易を支配し、欧州全土に不和と不安の種を撒き散らし、欧州大陸の支配者になるというのがその目標という訳だ。

が、『遺書』は実は偽造文書だった。18世紀初にフランスとオスマン帝国に繋がりを持つ何人かのポーランド人、ハンガリー人、ウクライナ人が創作し、数種類の異本を経た後、1760年代にそれが自国の外交政策に役立つと考えた仏外務省は、真正の遺書として文書館に所蔵した。

『遺書』の影響を強く受けたのがナポレオン一世だ。彼の外交顧問らは事ある毎に『遺書』に書かれた思想や文言を持ち出した。外相のタレーランは、「ロシア帝国はピョートル一世以来一貫した目標を追及している。即ち、全欧州を野蛮の洪水の下に沈めるという目標だ」と述べた。

『遺書』はナポレオンがロシアに侵攻した1812年にフランスで刊行された。以来、ロシアの拡張主義的な外交政策の決定的な証拠として、欧州大陸でロシアが参戦する戦争が勃発する度に『遺書』が話題となり、1854年と78年、1914年と41年などに繰り返し刊行された。

第二次大戦後の冷戦期にすらソ連の対外侵略の意図を説明する資料として引用され、79年のアフガニスタン侵攻時には、『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙と『タイム』誌の米メディアがモスクワの意図を示す証拠として『遺書』の一部を引用し、英国下院の論議も取り上げた

今回のウクライナ危機の対応でも、ロシアに強硬な米英両国と調整役に回るフランスの対照は印象的だが、こうした「世紀の偽造文書」に纏わる歴史的背景を読むと「なるほど」と得心する。

ピョートル大帝 Wikipediaより