東京遷都の正しい経緯と司馬遼太郎の「嘘」

今週発売になった「世界史が面白くなる首都誕生の謎」(知恵の森文庫)は、「首都とは何か」といった一般論や、世界の首都がどうして選ばれたか、各国の首都の都市構造とかグルメなど文化面の紹介などもしているが、日本の遷都問題についての議論や将来展望についてもそれなりのスペースでまとめて書いた。

今回は、そのうち、東京遷都についての部分を少し書き換えてご紹介しておく。

武家の時代の首都機能は、鎌倉時代は国防と治安維持の中心は鎌倉であり、公式の政治と文化と経済の中心は京都だった。鎌倉時代は、幕府が京都に移って首都機能はすべて京都で鎌倉が東日本の中心だった。

豊臣秀吉の時代には、大阪・京都(聚楽第)、そして伏見が政治の中心となったが、首都は京都であるというのが一般の意識だった。

徳川家康は、伏見城において将軍宣下を受けしばらく住んだが、やがて駿府に移った。秀忠と家光は将軍宣下は伏見城で受けたが、江戸を統治の中心とし、将軍の上洛もなくなった。

だが、幕末になると、将軍も上方に移り家茂は大坂城で死去し、慶喜は将軍である間はずっと二条城にあった。

「王政復古」というのは、幕府廃止だけが注目されるが、摂関制も両方とも解体して天皇のもとで近代国家を建設しようというものだったので、首都についてさまざまな、提案がされた。

王政復古の翌月(慶応四年1月、ただし太陽暦では1868年)には、大久保利通が「大坂遷都建白書」を提出した。「上下の区別なく国民が力を合わせ新国家を創るため、天皇が簾の奥におられ少数の殿上人としか会わぬのではなく、仁徳天皇のころのように皇室と国民の間を近づけ、国民の父母としての皇室を確立するべきだ。そのため、外国との交際、富国強兵の観点から浪速への遷都を断交すべき」と提言した。

幕末の将軍は京や大坂にいたので、幕府が大坂に移転した可能性もあったわけで、ごく自然な提案だった。ところが、公家衆は、平清盛が福原に遷都したり、安徳天皇を屋島や太宰府へ移したことの再現が薩摩の狙いではないかと警戒した。

そこで、とりあえず関東平定のための「車駕親征」として大坂へ移り様子を見ることになって、大坂滞在は約40日に及んだが、江戸が無血開城となったので、天皇は京都に戻った。

その後、戊辰戦争戦争の勃発もあり、将来ともに徳川家に江戸城を返すことは無いという姿勢を見せるために、1868年7月17日に「江戸は東国第一の要地であるので、これを東京と改称し、自ら赴き政務を見ることにする。自分が国内を一家とし、東日本、西日本を平等に見ようとするからである(車駕東遷)」とされた。

だが、戊辰戦争が官軍の勝利に終わり、天皇は京都に帰ろうとしたが、政府トップの三条実美が、「天皇が京都へ帰れば関東の人心を失う。京都、大坂の人々が新政府を恨んでも、数千年にわたり皇室の恵みを受けてきた土地だから心配ないが、関東は古来より皇室の恵みを受けることが少なく心配だ」と主張した。

明治天皇の東京行幸(”Le Monde Illustre”1869年2月20日)
出典:Wikipedia

それでも、孝明天皇の三年祭や立后の儀式もあり、12月に京都に戻ったが、三条が再幸を中止すれば東国の騒乱が勃発すると強引に議論をまとめ、太政官も移した。

なお、司馬遼太郎の短編小説「江戸遷都秘話」には、京都の大久保の自宅に投書があり、大久保が感銘して江戸遷都に踏み切ったとか書いているが、司馬自身が「これが事実とすれば、ひどくロマンティックだ」と結んでいるように、まったくのフィクションである。ただ、司馬さんは困った人で、自分が小説で書いたことを、エッセイや講演では史実であるように話されることが多かったので、上記の話があたかも史実のように流布されているのは、司馬さんのモラルが批判されるべきだろう。

前島の建白書と江戸への遷都の議論とは時期がずれている。江戸城では本丸御殿が1863年に焼失していたので、西の丸御殿を御所とした。しかし、それも焼けたので赤坂離宮(紀伊藩邸)に移り、1879年に西の丸に明治宮殿といわれる皇居ができた。外観は京都御所に似てるが、内部は洋式だった。

それが、戦災で焼失し、防空施設も兼ねた御文庫がお住まいになり(防空壕に住まれていたというのは都市伝説で間違い)、宮内庁に仮宮殿が設けられたが、1961年に吹上御所が完成し、1968年には、新宮殿が明治宮殿跡地に完成した。平成の陛下は赤坂御所(現東宮御所)におられたが、吹上地区に新御所が1993年に完成し、これを改造して2021年から令和の陛下がお住まいになっている。