北京と南京というライバル都市の歴史と文化

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どこの国にもライバルといわれる都市がある。日本の場合は、東京、京都、大阪が三都という複雑な関係にあって、トライアングルでライバルだ。

中国の場合は、北京と南京、西安と洛陽がそういう関係だ。歴史的には、これに開封(汴京)と杭州(臨安)もそうだが、開封は水害で流されてしまい見る影もない。

世界史が面白くなる首都誕生の謎」(知恵の森文庫)では、北京と南京、西安と洛陽を対比して扱っている。日本人は、北京と西安はよく知っているが、南京と洛陽は知らないが、乾燥地帯の北京や西安より、水が豊富な南京と洛陽のほうが日本文化の淵源として大事だと思う。

そこで、今回は、南京についての記述の一部を少し再整理し、また、「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)の一部も含めて紹介しておこう。

北京と南京が対等の形で並び立ったのが明朝における永楽帝の時代である。大都(北京)を首都とした元を倒した洪武帝(朱元璋)は南京を首都としたが、嫡男の皇太子は父より先に死んだので、孫の建文帝が二代目の皇帝になった。

それに対して北京の太守だった永楽帝が反旗を翻し、皇帝となり、のちに、北京に遷都した。モンゴルの脅威に対抗するためには、北方に強力な軍団を置いておく必要がある。しかし、その軍団は皇帝にとって脅威となるというジレンマを解決するためには、国土のなかで偏っていても北方に首都を置いた方がいいというわけだ。

しかし、明では南京にも特別な地位を与え、北京を順天府としたのに対して南京を応天府と位置づけた。

ついで清代の末には、太平天国の乱で洪秀全は、南京を天王府として首都としたし、孫文は南京に中華民国を建国した。しかし、その孫文から臨時総統を譲られた袁世凱は、約束を破って北京に留まったが、1928年に北伐で政権をとった蒋介石は南京に戻した。

だが、毛沢東が政権を握ったことにより、またもや北京が首都になったが、台湾に逃れた中華民国では台北を臨時政府所在地として、あくまでも首都は南京だという立場で(民進党政権になってあまりいわなくなったが)、北京を北平と呼んだりする。

日本人と日本文化の故郷は江南地方だ

「千里鶯啼きて綠紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝四百八十寺 多少の樓臺烟雨の中」という夢幻的な情景を描いた「江南春望絶句」という漢詩の名作がある。晩唐の詩人杜牧が、隋による南北統一(581年)まで、南京(建康)を首都として栄えた南朝の栄華をしのんで詠んだものだ。

中国における南朝の国々とか南北朝時代とかいうと、狭い意味では、東晋が滅びたのちに興亡した宋、斉、梁、陳の4つの王朝とその時代のことを指す。しかし、それに先行して建業(建康)に都をおいた三国時代の呉、いったん西晋が中国を統一したのち北方民族に追われて317年に華南に移ってきた東晋もあわせて六朝(りくちょう)とも呼ぶし、少なくとも東晋と四つの王朝は一体と見て南朝時代(317~589年)と言ってよいのではないか。

国家は脆弱で、貴族たちは勝手気ままで贅沢な生活を送ったが、「書聖」といわれる王羲之、『女史箴図』を代表作とする画家の顧愷之、「桃花源記」で知られる詩人の陶淵明などが活躍した中国文化の黄金期であり、仏教がもっとも栄えた時代でもある。

中国のうち長江下流にある南京から揚州、蘇州、無錫といった江南地方は、日本人にとってさまざな意味での故郷だと私は思う。水田による稲作はここで始まり、日本に伝えられた。朝鮮半島経由と思っている人が多いが、せいぜい半島沿岸部を経由した程度だ。

稲作が江南地方から来たとすれば、弥生人たちも江南の人たちであろう。実際、古代中国人は日本人を「呉の太白」の子孫だと認識していた。呉の太白は周王室の始祖である文王の伯父である。父が三男の季歴に家を継がせたがったので、次男である弟とともに江南に移り春秋戦国時代に栄えた呉を建国したとされる人だ。

この逸話が本当とも思えないが、古代中国人が印象として日本人と江南の人々が似ていると思ったことを意味するわけで、同時代人のストレートな印象は考古学的遺物にまさる説得力があるというべきで軽視すべきでない。

文化についても、四世紀の大和朝廷による国土統一から遣隋使・遣唐使の派遣までのあいだに主として百済経由で輸入した大陸文明とは、まさに、南京(建康)を首都とする中国南朝のものだった。

その名残りは、漢字の読み方にもある。「六朝時代」と書いて「りくちょう」と唐から伝わった漢音で読むのが習慣だが、「ろく」というほうが南朝から日本に伝わった呉音であって、日本語には呉音の発音が多く残る。「日本」の「日」を「にち」と読むのでも呉音であって、「にちふぉん」といった発音をしたようだ。

和服は呉服と呼ばれるように北方民族に支配される前の漢民族の服装にルーツを持つし、最初に入ってきた仏教も南朝系である。

百済からと日本人が思っているものは、ほぼすべて南朝の人々や文化が百済を経由してやって来たものだ。王仁博士、止利仏師、秦氏など百済から来て文明の発展に貢献したのは例外なく漢民族であって狭い意味での百済人は亡命者だけだ。

南京の現在

南京は長江の左岸の湾曲部にある要害の地である。市街地の東側に紫金山(449メートル)が聳え、山中に光武帝の孝陵や中山陵、蒋介石夫妻が住んでいた美齢宮がある。その西側の麓に明の順天府は営まれ、六朝時代の建康はもう少し西の長江に近い地区である。

その南側は秦准河沿いに水路が多い下町が拡がり、大阪の道頓堀周辺のようである。太平天国の乱のときの洪秀全の政府は、この下町と建業の中心との中間的な場所にあった。中華人民共和国のもとでは、南京は江蘇省の省都に過ぎないが、文教都市としては健在だ。大学の学生数では北京に次いでいる。

【グルメ】
北京では鴨の蒸し焼きである北京ダックが名物。本来は皮だけ楽しむもの。南京では、塩水鴨という塩漬けのアヒルや、鴨血粉絲湯という鴨の血や砂嚢、腸、肝を使ったスープに春雨が入っているものが人気。杭州は龍井茶という中国緑茶の産地でもある、東坡肉(豚の角煮)は詩人に因む。