フィンランドがNATOに加盟しないであろう理由(後編)

高橋 克己

1939年9月1日、ナチスドイツはポーランドに侵攻、ポーランドと同盟していた英仏が3日ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。ソ連軍も17日、ポーランドとの不可侵条約を一方的に破棄してポーランド東部を占領、バルト三国にも進駐した。

ソ連はフィンランドにも「ハンコ岬貸与、カレリア地峡割譲、フィンランド湾内の一部諸島割譲」を要求したが決裂、11月30日にソ連軍は両国の「不可侵条約の基礎は崩れた」との口実の下、一斉にフィンランドに侵入し、「冬戦争」が始まった。二次の戦争は「継続戦争」と称される。

ここからは随所にある武田龍夫氏の「声涙倶に下る」名調子を、出来るだけそのまま引いてみたい。

世界最大最強の大赤軍が北部、中部、南部から雪崩の様に進入してきた。しかしフィンランド軍の果敢な英雄的交戦が始まるのである。これを指揮したのがマンネルヘイム将軍だった。フィンランド兵は壮絶な戦闘を続けた。それは祖国防衛のために死力を尽くすフィンランド軍の慟哭の悲詩であった。世界は感嘆した。

フィンランド人民共和国を樹立したソ連を国際連盟は除名するが、独ソ不可侵条約の秘密議定書でフィンランドとバルト三国をソ連圏としていたソ連は沈黙した。英仏が派遣する大規模な援軍は3月まで来ず、スウェーデンとノルウェーもその域内通過を拒否する。が、ソ連は英仏との戦争回避のため、一転フィンランドとの和平交渉に同意する。

フィンランドは刀折れ矢尽きて40年3月、和平条約に署名する。が、「冬戦争」は終わらなかった。その間の被害は甚大で、前述の領土割譲に加え、4百万の人口のうち2万5千の戦死者と4万3千の負傷者を出し、東方の領土から50万の難民が流入した。

それでもソ連は満足せず、オーランド諸島非武装化、ハンコ半島への赤軍通過権、北部ペツァモのニッケル鉱山譲渡などを要求し、バルト海上ではフィンランド旅客機を撃墜した。この間にバルト三国は赤化され、デンマーク・ノルウェーにはハーケンクロイツ旗が翻った。

そんな時、旭日の勢いのドイツに対する伝統的な友好感情が復活し、フィンランドをしてドイツとの協力政策に踏み切らせた。それは休暇および病兵輸送を名目とする独二個師団のフィンランド国内輸送協定締結だ。が、フィンランドが間違った側に付いたと気付いた時にはもう遅かった。

41年6月22日、バルバロッサ作戦が始動、するとソ連機がヘルシンキを空爆した。こうして始まった「継続戦争」は「冬戦争」とは違い、3年間に及ぶ対ソ戦になった。政府は「フィンランドは戦争に巻き込まれた」、「失地回復のための冬戦争の継続だ」、「決して枢軸の一員ではない」と説明した。

フィンランドは対ソ戦を、ドイツとの「共同作戦」ではなく、同時進行の「分離戦争」としたが、連合国側には通じない。マンネルヘイムは順調に失地を回復する一方、ドイツが求めるレニングラード攻撃参加は拒否した。後にリュチ大統領が「レニングラードはフィンランドが救った」と述べた所以だ。

peeterv/iStock

そこで暫く「ヴェノナ文書」の話。同書には「1941年6月にフィンランドのペツァモにあるソ連領事館に侵攻したフィンランド軍が、酷く焼けたソ連のコードブック(暗号表)を捕獲した」とある。ペツァモはソ連が割譲を要求しているように、フィンランド最北地域で、今はソ連のムルマンスク州。

このコードブックがフィンランドからドイツ軍の手に渡り、保管されていた。45年5月、ドイツの降伏で進駐した米陸軍諜報チームがポーランドと接するドイツ中部ザクセンのシグナル諜報公文書館で発見したコードブックがそれだった。

その公文書館はソ連の占領地区にあり、米諜報チームは「ソ連がその地域に入る前日にそのコピーを持ち去った」。コードブックは酷く損傷していたものの、ヴェノナチームがKGBのコードブックを再構築するのに大いに役立った。

米陸軍信号情報部(SIS、NSAの前身)は39年から暗号電信を収集し始めたが、日独の暗号の優先順位が高く、ソ連の暗号は暫く等閑視された。が、SISは日本陸軍の参謀幕僚とベルリンやヘルシンキの日本大使館付武官との、フィンランド暗号分析官のソ連暗号に関する作業に関係する通信を傍受していた。

フィンランドには主たる脅威のソ連に集中する優秀な暗号スタッフがいた。彼らは外交暗号を解読できていなかったが、外形的な特徴を部分的に解明し、大半の外交通信を特定可能な一連の変種に分類していた。フィンランドはその情報を、ソ連に対する反感を共有していた日本に伝えていたのだ。

このフィンランドと日本の間の情報が米国の暗号分析官をして、如何なる暗号解読を始めるにも不可欠な、通信を同種の揃いに分類することを可能にした。それはソ連の暗号が急速に分析されると信じさせた。それは陸軍特別支部のCarter Clarkeがソ連通信の調査を認定した1943年のことだった。

当初プロジェクトには名称がなく、「ロシアの外交問題」といった語が使われた。解読された暗号通信には後に公式コード名称が与えられた、即ち、当初はJade、次にBride、次にDrugそして1961年にVenonaと。やがてその暗号解読の取り組み全体が「ヴェノナ作戦」として知られることとなった。

閑話休題。事態はソ連の大反撃、ドイツの全面退却と相成る。そんな中、ヒトラーがヘルシンキを訪問し、これが「冬戦争」でフィンランド国民に深い敬意を持っていた米国の感情を害した。マンネルヘイムは早期にドイツから離れるべきことを政府に進言、スウェーデンを介しモスクワと連絡を取る。

が、ソ連の和平条件は苛烈だった上、動きを知ったドイツはフィンランドへの食糧輸出を止め、国内は食糧危機に陥る。カレリアではソ連が、戦史にかつてみない最大規模な砲撃を開始、続いて大量の爆撃機と戦車が殺到した。

44年8月1日、リュチ大統領はドイツからの離脱を目的に、健康を理由にして退陣、議会はマンネルヘイム元帥を大統領に選出し、ハクツェル内閣が発足した。斯くて和平交渉が進展した9月4日、戦火は止んだ。

フィンランドがソ連に割譲した国土。ポルッカラは租借地。
出典:Wikipedia

フィンランドの損害は、ペツァモ地方割譲、ボルカラ地区租借、賠償金3億ドル、40年国境の確認など。息の根を止められることは免れたものの、6万5千の死者、15万8千の負傷者を出した。何よりナチスドイツとの「共闘」のために、「冬戦争」で得た世界の同情と尊敬を失ってしまった。

しかし彼らはあの「シス」という不屈の精神を失わなかった。戦後八年間の苦しみに満ちた暗いトンネルを抜け出して、新生フィンランド国家の自立と復興を見事に成し遂げるのである。

国内ではソ連が後押しする共産党による、少数だが激しい戦争責任の追及が行われた。法的に犯罪と見做されるべきでないとの意見が一般の理解だったが、結果として大統領、首相、そして閣僚8人が有罪とされ、リュチ大統領は10年の強制労働刑となった。

国民は「犠牲の羊」が捧げられたと嘆じ、全て敗戦の代償と考えた。だから八人の指導者たちに対する国民多数の敬意は少しも変わらなかった。そして彼らもまた不当な判決を母国のために黙々と受け入れたのである。

そしてこの時にリュチ大統領は語ったのである。「大統領官舎にあっても獄中にあっても、国民に奉仕することにおいては等しいことである」と。

後にリュチが死亡した際、その葬儀が元元首にふさわしい盛大な栄誉を以って行われたのも不思議はない。それにしてもかかる政治家をもったフィンランド国民は何と幸福な国民であろうか。

改めて裏切りのソ連史には呆れるというより、見事というほかない。45年8月8日の日ソ中立条約破りも然り(参考拙稿「38度線はこうして引かれた:朝鮮半島分断小史」)。が、世界を牛耳る国連安保理の常任理事国に、同じ様な前科のない国などないことも忘れてはなるまい。

さて、時に感傷的なこの著者の記述も相まって、筆者には、災禍に耐えて国を守るために闘ったこのフィンランド国民と目下のウクライナ国民の姿が重なり、また日本のために戦った父祖に思いをいたし、思わず胸が熱くなった。戦ってこそ「新生国家の自立と復興」が成し遂げられる。