英国の対ドイツ戦を援助するため、米国の防衛と重大な関りがある国に軍事物資などを供与すべく1941年3月に成立したのが武器貸与法だ。ローズベルト大統領の肝煎りだった。41年6月に中国、同年11月にはソ連にも適用され、終戦までに総額約500億ドル分が連合国に提供された。
かのヴェノナ文書にはソ連が対米スパイ活動にも武器貸与法を大いに利用していた様子が活写されている。以下は拙訳の引用。
1942年初期、ソ連、英国および米国は、ナチスドイツとその同盟国を打ち破るため軍事同盟を形成していた。ソ連はすぐに米国の武器貸与法の英国に次ぐ主要な受け手になって、最終的に90億ドル以上を受け取った。
米国はソ連に対し貸与の調整を容易にするための外交部職員の増員と特別部門の設立を求めた。何千人ものソ連軍将校や技師が、何が援助されるか、どの機械、武器、車両(40万台近い米国製トラックがソ連に向かった)、航空機その他の軍需品がソ連の戦争遂行に役立つか、を調査しに米国入りした。
ソ連人は米国の装備品を維持するために訓練されねばならず、マニュアルは露語に翻訳されねばならず、オーダーされたものが適正に積み込まれ、適切な船で発送されことを確実にするため検査されねばならなかった。ソ連海軍乗組員が米国の戦争とソ連に向って操縦される貨物船を引き継ぐために到着した。
大勢のKGBやGRUやNaval GRUの諜報将校が米国に到着したソ連人の中に混じっていた。KGBの国内安全保障部門は、ソ連国民の政治的忠誠心を強化するために数百万人の情報提供者に支援された数十万人の職員を雇っていた。武器貸与の調整を支援するために数千人の国民を米国に送った時、ソ連は国内安全保障組織の者*も同時に送り込んでいた。(*監視要員)
解読されたヴェノナ文書の多くの部分がこの任務について報告していた。ヴェノナ文書は、貸与物資を積み込むために米国の港に到着したどのソ連貨物船にも、最低でも一人か二人、時には三人のKGBまたはNaval GRUに報告をする情報提供者がその乗組員の中にいたことを示している。
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何とも凄まじいソ連の工作振りと米国の間の抜けた善良さが垣間見える。そのソ連に武器貸与法を適用した41年11月、米国は26日にハル・ノートを日本に送達した。そこで、この武器貸与法と北方領土との関りについて、スラヴィンスキーの「千島占領」(共同通信社)に依拠しつつ見ていきたい。
ハル長官は真珠湾が攻撃された12月8日にリトヴィノフソ連大使を呼び、ソ連の太平洋沿岸の基地を米国に提供するよう要請した。リトヴィノフは対独戦中のソ連を日本が攻撃する危険を理由に拒否した。が、42年8月にチャーチルがスターリンと会談した際、同席したハリマン駐ソ米国大使がこの件を持ち出したところ、スターリンは時期が来れば参戦する旨を述べた。
当時、駐ソ米軍事使節団長だったJ.ディーン将軍は「私とハリマンの主要なミッションはソ連を対日戦に引き入れること」と後に書いた。43年11月のテヘラン会議を経て、44年6月のノルマンディー上陸作戦成功後、ディーンはソ連軍参謀長に対日参戦をプッシュするも反応は鈍かった。
44年9月、ローズベルトとチャーチルはケベックで会談し、ドイツ敗戦後1年半までに対日戦勝を期した。ハリマンがその会談内容をスターリンに報告したところ、漸くスターリンはソ連軍の極東集結と物資補給の計画作成を参謀本部に命じた。ヤルタ会談5ヵ月前のことだった。
ソ連参謀本部の計算では、欧州から極東へ軍を移すには、燃料、食料、輸送手段の備蓄を設けるための3ヵ月が必要で、しかもそれには米国からの援助を必要とした。極東の港に物資の供給があれば、限られた輸送能力のシベリア鉄道より軍隊の再編成がやり易い。米国は同意した。
44年9月末、スターリンはハリマンに必要な物資と資材の書かれた7頁のリストを示した。それには戦車3千両、自動車78千台、航空機5千機、乾燥貨物860千トン、燃料206千トン、150万人の軍隊に見合う食料、燃料、輸送手段その他の資材が45年6月末までに必要、と書かれていた。
アラスカ経由のルートが使われ、終戦までに670万トンの物資が輸送された。この他にアラスカからヤルクーツクへの空輸分が数千トンあり。アラスカではソ連太平洋艦隊の水兵15千人が訓練を受けた。彼らは米国から貸与された138隻の水上艦隊で勤務。
ソ連のクズネツォフ海軍大将の回想録には、武器貸与法でソ連は、掃海艇77隻、警備艦28隻、上陸用舟艇30隻、大型駆逐艦78隻、警備艇60隻を受け取っているとある。当然にこれら艦船の多くが独ソ戦よりもむしろ千島占領に使われた。
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かくて1945年2月11日にヤルタ協定がなされ、ドイツ降伏後2〜3ヵ月後のソ連による対日参戦と南樺太・全千島のソ連引渡が密約された。だが、これに何の法的根拠もないのは今や周知のことだ。
スターリンはこの時「ソ連の条件が受け入れられるなら、ソ連が日本に参戦した理由をソ連国民は理解するであろう」と述べたという。国民のことなど眼中にない為政者ほどこういう物言いをするのは、中国や北朝鮮の国名に「人民」が付いているのと同工異曲か。
ソ連の日ソ中立条約破りについては5月15日に書いたので、本稿ではその時に端折ったソ連による千島列島蹂躙の経過をみる。1945年8月の出来事を時系列に並べると以下ようだ。
- 8月09日 ソ連軍、満洲侵攻
- 8月14日 ポツダム宣言受諾のご聖断
- 8月15日 終戦の詔(玉音放送)
- 8月23日 ソ連軍、カムチャツカ半島から千島北端の占守島に侵攻し占領
- 8月23日 日本軍北方司令官堤中将、得撫島以北の日本軍に降伏命令
- 8月24日~31日 カムチャツカからのソ連軍、得撫島までを順次占領
- 8月28日 樺太からのソ連軍、択捉島に侵攻し占領
- 9月01日 〃 国後島に侵攻し占領
- 9月01日 〃 色丹島に侵攻し占領
- 9月02日 降伏文書調印・一般命令第一号署名(ミズーリ艦上)
- 9月02日 歯舞群島占領命令
- 9月03日 歯舞群島上陸
- 9月05日 歯舞群島占領
ワシントンはマッカーサー宛に一般命令第一号(樺太・千島の日本軍のソ連軍に対する降伏を含む命令書)を作成し、8月15日にモスクワにも通知した。スターリンは北海道北半分を含めるよう提案するがトルーマンは拒否し、スターリンはロシアの世論は大いに憤慨するであろうと返書した。
他方、トルーマンは19日、千島の一島に米軍基地を置くことを提案。スターリンは30日、同意するがアリューシャン列島の米国空港へのソ連商用機の着陸を求める、と相互主義を貫いた。以後この件は沙汰止みに。
占守島の攻防では日ソ双方に1万余りの死者が出た。が、以降9月5日まではほぼ無血だ。その理由は23日に堤司令官から降伏命令が出されたからだ。一般命令第一号は8月15日にソ連にも通知されていたから、ソ連の千島侵攻は全く余計だった。
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米国はサンフランシスコ平和条約の形成や1956年の日ソ共同宣言前の「ダレスの恫喝」で戦後の北方領土問題の処理を主導した。が、以上見ていたように日米開戦前からも、武器貸与法の適用を始めとしてソ連の太平洋岸基地の使用や対日戦への参戦要請などで、ソ連の樺太・千島占領に極めて深く加担していた。
以上から導かれることの一つに、我国の北方領土交渉に対する米国の支援義務が挙げられよう。米国が主導し関与したこの問題、トランプからプーチンに「我々は沖縄を返した、君も北方四島を日本に返せ」くらいはいっても罰は当たるまい(トランプの恫喝)。それで漸く米露お相子になる。
令和初の国賓トランプ大統領の接遇を成功裏に終え、次は北方領土交渉も含むであろうG20サミット。4月21日に書いた通り、英国公文書館で古地図も見つかった。安倍総理には正々堂々たる交渉を望みたい。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。