世界の正教会ではロシア正教会最高指導者モスクワ総主教キリル1世にロシア軍のウクライナ戦争に反対する声明を求める声が益々高まってきた。ワルシャワのポーランド正教会サワ府主教は先週末、キリル1世に書簡を送り、「ロシア軍のウクライナ戦争を中止するように声を上げてほしい。聖王子ウラジミールの同じ洗礼盤の子孫である2つのスラブ正教会の国がフラトリサイド戦争(兄弟戦争)を行っていることは理解できない。あなたの権威の力を知っているので、あなたが声を挙げれば多くの人々は耳を傾けると信じる」と書かれている。
キリル1世はこれまで沈黙してきた。同1世は、「ウクライナに対するロシアの戦争は西洋の悪に対する善の形而上学的闘争だ」と主張し、プーチン大統領と思想的に一致していることを明らかにしている。
それでは同1世のいう「西洋の悪」は何を意味するのだろうか。ウィーン大学組織神学研究所のクリスチャン・ストール氏とヤン・ハイナー・チューク氏はスイスの日刊紙「ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング」(NZZ)への寄稿(3月14日)で、「プーチンは、西側の退廃文化に対する防波堤の役割を演じ、近年、正教会の忠実な息子としての地位を誇示してきた」と記述している。一方、モスクワ総主教キリル1世は説教の中で、「プーチン大統領によって解き放たれた戦争は西側の同性愛者のパレードからロシアのクリスチャンたちを守る」と述べている。すなわち、プーチン氏とキリル1世は西側文化への拒否で一致しているわけだ。
それだけではない。両者の同盟はロシアのキリスト教が西暦988年にキエフ大公国の洗礼によって誕生したという教会の歴史的物語に基づいている。ベラルーシ、ウクライナ、そしてロシアは、教会法の正規の領土を形成する。プーチン氏のネオ帝国主義的関心とほぼ一致しているわけだ。ロシア正教会の「宗教的神話」とプーチン大統領の「政治イデオロギー」が結合することで「宗教ナショナリズム」が生まれてくる。その宗教ナショナリズムは反西洋で一層強固となっていく、といった構造かもしれない。
東方正教会の精神的指導者の立場にあるコンスタンチノーブル総主教庁(トルコのイスタンブール)が2018年10月11日、ロシア正教会の管轄下にあったウクライナ正教会の独立を承認した時、ウクライナのポロシェンコ大統領(当時)は、「悪に対する善の勝利だ」と称賛した。その直後から、プーチン大統領とキリル1世の「政教同盟」はウクライナ奪回で連帯を強めていったのではないか。
文明論考家の上野景文元駐バチカン大使は「東西間の文明的亀裂」と表現しているが、キリスト教会が東西に分かれて以来、西側ではカトリック教会やプロテスタント教会が、東側には正教会が広がっていく。歴史の進展の中で東西間に亀裂が生じ、対立、紛争が起きてきた。東西間の境界線は冷戦時代には政治的境界線となって“鉄のカーテン”が敷かれていったわけだ。
ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)の首座主教であるキエフのオヌフリイ府主教は先月24日、ウクライナ国内の信者に向けたメッセージを発表し、ロシアのウクライナ侵攻を「悲劇」とし、「ロシア民族はもともと、キエフのドニエプル川周辺に起源を持つ同じ民族だ。われわれが互いに戦争をしていることは最大の恥」と指摘、創世記に人類最初の殺人として記されている兄カインによる弟アベルの殺害を引き合いに出し、両国間の戦争は「カインの殺人だ」と述べた。同内容はロシア、ウクライナ両国の正教会に大きな波紋を呼んだ。
「カインの殺人」、「東西間の文明的亀裂」、そして「善悪の闘争」等はキリル1世の「形而上学的な闘争」のジャンルに入るかもしれない。ただ、ウクライナで現在、多くの人々が銃弾の犠牲となっているという現実は変わらない。
イスラエルの気鋭の歴史学者ユバル・ノア・ハラリ氏は、「戦争は憎悪を植え付ける。そして後の世代がその収穫を刈り取らざるを得なくなる。過去に囚われず、われわれは前に思考を向けて生きるべきだ」と述べている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。