オデッサとヤルタに宮殿を築いたロシア将軍の話に寄せて(後編)

ヴォロンツォフ宮殿
Pazhyna/iStock

ヴォロンツォフ宮殿がKGBに盗聴されていた証拠は、例えば、ヤルタに同行したチャーチルの令嬢サラが、宮殿の「オレンジの温室」で何気なく「キャビアにはレモンが合う」というと、「手品のようにレモンの木が現れる」といった具合だった。応接した、実はKGBのクルグロフ将軍は、5ヵ月後のポツダム会談で「大英帝国二等勲爵士」を授与され、ナイトの称号を受けた唯一のソビエト諜報将校となった。

前編はこちら

『ミトローヒン文書』のこの記述の直前には、ソ連のGRU(KGBより小規模なソ連陸軍の諜報部門)のスパイであることが、元スパイのウィタカ―・チェンバースの証言や『Venona』によって露見しつつあった外務官僚のアルジャー・ヒスが、ヤルタ会談にルーズベルト大統領の顧問として随行する頃の様子が以下の様に記されており、『Venona』が真実であることの裏付けにもなっている。

陸軍諜報部(※GRU)は、強力なNKGB(※NKVD=人民内務部の後身でKGBの前身)のフックス(※ロスアラモスの原爆開発スパイ)らの重要な大勢のスパイの前に、白旗を掲げることを余儀なくされていたが、1945年にとうとうGRUは、NKGB本部が羨むような男を確保することに成功した。

ゴ―スキー(※NKGB海外諜報部門の幹部)は、過去10年以上GRUのために活動してきたALES(※ヒスの暗号名)とアフメロフ(※NKGBの在米元締め)との会話をNKGB本部に報告した。ヒスが上級外交官であったにも拘らず、GRUは国務省の文書にほとんど興味を持っていないように見えるとアクメロフは述べ。が、45年2月にクリミアのヤルタで開かれる決定的な戦時の三巨頭会議の準備で、44年末からヒスは活動的にスパイに従事し始め、ソ連のスパイとしての新しい重要な役割を負った。

『ミトローヒン文書』には、ウクライナ最大の港湾都市オデッサでの、ドイツ・ルーマニア連合軍とNKVD、そしてNKVD内部の凄惨な闘争の記述もあるので、以下にそれを述べる。NKVDは22年から41年までスターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた部署で、後のNKGBやKIを経て、51年からKGBとなった。

ソ連の公式記録は、NKVDの勇敢さの事例として、第二次大戦でドイツとルーマニアの連合軍に占領されたオデッサで、NKVDの分遣隊がカタコンベ(キリスト教徒の地下墓地)の迷路を基地として900日間パルチザン活動を行ったことを挙げている。が、ミトローヒンは「けれども・・その英雄譚はKGBによる記録の潤色がなされていた」とする。

ミトローヒンは、そのカタコンベの物語のファイルをKGBの同僚から入手した。ファイルはオデッサに派遣されたモロゾフ分遣隊6名がカタコンベに降りる1941年10月から始まっていた。オデッサでクズネツォフ率いる現地のNKVDの13名と合流し、その後9カ月間、モスクワ人とオデッサ人は仲間内の血生臭い闘争と共に、ドイツ・ルーマニア軍に合同で当たった。

オデッサの街路や大通りに沿って並ぶ19世紀の瀟洒なビルの下に、砂岩を掘って作られた地下迷路が今も残っている。地図に載っていないだけでなく、入口と出口が沢山あるカタコンベはパルチザン闘争の理想的な基地だった。その一つに69年の欧州戦勝25周年記念日に開設された「パルチザン栄光記念館」は、ソ連の残りの時代を通して年間1千万人以上の観光客を受け入れた。

公式記録には、モロゾフは42年7月に敵に捕らえられたが命乞いせず、勇敢にも「自国にいる我々は敵に慈悲は求めない」と言ったとある。しかしクズネツォフはモロゾフが捕まった後、モロゾフ分遣隊を武装解除して監視の下に置き、彼に対する陰謀を疑って一人(アブラモフ)を除く4人を処刑した。

カタコンベの状況が悪化するに連れ、オデッサそれ自体の崩壊も進行していた。減少する食料供給は質が落ち、灯油も使い果たして、分遣隊は薄暗い中での生活を余儀なくされた。8月末にクズネツォフはパンを盗んだ咎で部下一人を銃殺、一月後には別の二人を食料窃盗と“性風紀の乱れ”で処刑した。

その一月後、アブラモフとグルシェンコは、次に銃殺されるのを恐れてクズネツォフを殺害、リトヴィノフを加えた3人だけが残った。後にカタコンベで発見され、ミトローヒンが読んだKGBファイルに保管されているアブラモフが書いたノートに、そのことが克明に書かれていた。

アブラモフとグルシェンコは共謀してリトヴィノフを殺し、そして薄暗い中、疑いの目で互いを見合った。43年2月、幻覚に襲われていたグルシェンコは「彼(アブラモフ)の後頭部を撃った」と書き、その数ヵ月後にカタコンベを出て、オデッサにある妻のアパートで多くの時間を過ごした。

45年4月にオデッサが赤軍に解放された後、グルシェンコはカタコンベから不名誉な物を回収するため、ウクライナのNKVDに復帰したが、拾い上げた手榴弾が爆発して酷い怪我をした。カタコンベの真実を知るKGBは63年、実はアブラモフが生きてフランスにいること、彼の父親も米国に移住していたことを知り狼狽する。KGBで働いていたアブラモフの未亡人ニナもこっそり別の部署に移された。

以上が、『ミトローヒン文書』にある、オデッサのカタコンベで先の大戦中に起きたことの真相だ。筆者は半世紀前の群馬山岳で起きた日本赤軍の凄惨な「総括」を思い出した。が、オデッサの「総括」から80年経った今また、プーチンは、彼が同胞と呼ぶウクライナの無辜の人々が暮らすオデッサを、ロシア軍艦に艦砲射撃させている。

250年前にエカテリーナ2世とポチョムキンが、そしてリシュリー公爵やヴォロンツォフ将軍が建てた瀟洒な街並みも破壊の危機にある訳だが、プーチンの出身母体の前身がオデッサに残した虚構が露見している以上、貴重なキリスト教の遺構カタコンベも、そこにある「パルチザン栄光記念館」も、ロココ様式の建物も、歴史を俄か勉強したプーチンは恥ずかしくてそのままにしておけないのだろう。