オデッサとヤルタに宮殿を築いたロシア将軍の逸話に寄せて(前編)

ロシアのウクライナ全面侵略から1ヵ月、国内外へのウクライナ避難民が1千万人を超えた。攻撃が民間施設に及んでいることの証左だが、米国防総省は21日、黒海北部に展開するロシア海軍がウクライナ最大港湾都市オデッサを砲撃したことを明らかにした。

今回のウクライナ侵略の背景の一つに、コロナを恐れる余り、人を避けて歴史研究家になったプーチンが、「ロシア帝国以前の伝説に深く分け入った結果、歪んだ国家神話を信じてウクライナや西ヨーロッパに対する恥辱を妄想し、それを雪ぐ戦いを始めた」と述べる識者もいる。

侵攻前のオデッサ オペラ劇 Asergieiev/iStock

本稿では、エカテリーナ2世の18世紀後半から第二次大戦期までの、オデッサとヤルタに関するトピックを前後編に分けて書く。『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社)、『クリミア戦争』(白水社)、『The Sword and the Shield(ミトローヒン文書)』(Basic Books)などを参考にした。

『ミトローヒン文書』はソ連崩壊後の92年3月、長年にわたりKGB機密文書から書き写したトランク数個分のメモと共に英国に亡命した、KGBの元文書保管部幹部ワシリー・ミトローヒンによる、ケンブリッジ大の諜報史研究家クリストファー・アンドリューとの共著で、16年に筆者は自家用に翻訳した。

43年間帝位にあったピョートル大帝の死(1725年)から、1762年のエカテリーナ2世の即位(96まで在位)までの6人のロシア皇帝、即ちエカテリーナ1世(25-27)、ピョートル2世(27-30)、アンナ(30-40)、ピョートル3世(40-41)、エリザヴェータ(41-61)、ピョートル3世(61-62)は、何れも自らの統治理念を持たない意志の弱い皇帝だった。

ロシア近代文学の祖プーシキンが「北方の巨人の遺産のとるに足らない相続人たち」と呼んだこれら6人の最後のピョートル3世は、プロイセンとの「七年戦争」を一方的に停戦し、占領地の返還指示を出す。すでにベルリンを占領していたロシア軍はこれに激怒し、クーデターを起こしてピョートル3世を逮捕、殺害してしまう。

斯くて、これへの関与説もある后妃エカテリーナ2世が帝位を継ぐが、彼女は北ドイツ、シュテティン(現ポーランド)のアンハルト・ツェルプスト家の令嬢で、結婚でエカテリーナ・アレクセーヴィナと改名し、正教徒となった生粋のドイツ人だった。

即位10年後、女帝エカテリーナ2世は「大反乱」に遭う。73年夏、ドン・コサック(コサックの軍組織)のプガチョフはピョートル3世を名乗り、女帝を「簒奪者」と呼んでコサックを糾合した。そのスローガン「貴族身分根絶」はナイーブな民衆の支持を得、農民やウラルの工場労働者や抑圧されていたパシキールなどの非ロシア人異教徒らが反乱に加わった。『プガチョフ史』を編んだプーシキンも共感者の一人だった。

大軍を投入して、75年9月に反乱を鎮圧した女帝は、この反乱の原因を「地方の無力」と考え、地方行政を大改革する基本法を発した。その狙いは、地方の細分化による「人頭税」や「徴兵」の遺漏撲滅と、「解放令」によって地方に移住させた貴族を行政と裁判に参加させることにあった。

これらと並行してエカテリーナは領土の拡大にも着手した。自身の出身地であるポーランドの3次にわたる分割(ポーランドとリトアニアが消滅)や、オスマン帝国との2度(68-74と87-91)の露土戦争によるウクライナやクリミア汗国の併合などがそれだ。

これに貢献をしたのが62年のクーデター以来、女帝の傍に居て秘密結婚もしていた、軍人で政治家のグレゴリー・ポチョムキンだ。『クリミア戦争』の著者ファイシズは、彼の影響を受けて「女帝はオスマン帝国を亡ぼし、その廃墟の上にビザンチン帝国を復活させる夢を抱」いたと書いている。

女帝は黒海北岸地域をノヴォロシア(新ロシア)と命名し、その広大な土地を貴族階級に与え、ポチョムキンに植民地化と開発を命じた。こうしてノヴォロシアにはエカテリノスラフ、ヘルソンオデッサ、二コラエフなどの都市が生まれ、多くの建物がフランスやイタリアのロココ様式で建設された。

その中心都市オデッサの建築美は、フランス革命を逃れてロシアに亡命していたリシュリー公爵(ルイ13世の宰相の後裔)に依ったが、大港湾都市に仕上げたのは女帝の奨励策で移住してきたギリシャ人たちだった。オスマン帝国が「認めた自由航行権により、黒海と地中海を結ぶ貿易の主要拠点となった」(『クリミア戦争』)。

77年にクリミア汗国の首長に就いたチンギス・ハンの後裔シャヒン・ギレイは、ベネチアで教育を受けた西欧化した人物で、女帝を魅了しただけでなく、クリミア半島に住んでいたキリスト教徒にも人望があったが、オスマン帝国はシャヒンを承認せず、クリミア・タタール人による蜂起を扇動した。

一旦は逃亡したシャヒンだが、直にクリミアに戻って「ロシア人も仰天する残虐さ」でタタール人制圧に出る。これにタタール人勢力もオスマン帝国の支援を得て逆襲、斯く始まった宗教戦争では3万人のキリスト教徒が、クリミアからタガンログやマリウポリなどのアゾフ海沿岸の都市に脱出し、その大半が住む家のない難民になった(マリウポリの悲劇は今また繰り返されている)。

シャヒンはロシアに圧力をかけてクリミア併合を促し、ポチョムキンは他国の介入前に併合すべく、オスマン帝国に戦争を仕掛ける一方、多額の年金と引き換えにシャヒンを退位させる。同時にクリミアでもタタール人を説得し、ロシアへの恭順を誓う儀式を行った。「クリミア併合が、少なくとも見かけ上は住民の意志であることを世界に示すことがポチョムキンの狙いだった」(『クリミア戦争』)。

時代を少し下った1823年にノヴォロシア総督に任命され、28-29年の露土戦争を指揮したミハイル・セミョーノヴィッチ・ヴォロンツォフ将軍もオデッサの建設に尽力、壮大な宮殿を建築や蒸気船団を創設して黒海の海運産業を育成した。またクリミア半島南岸のアルプカにも英国=ムーア様式の壮麗な宮殿を建設した。

将軍がそれを英国様式にしたのには、歴史の皮肉ともいうべき背景があった。彼の父、セミョーン・ロマノヴィチ・ヴォロンツォフ伯爵は、長く駐英ロシア大使を務めた外交官で、退任後もロンドンに留まり、その88年間の生涯のうち45年を英国で過ごした親英派で、当然、その将軍も親英派だった。

彼の妹キャサリンも英国のジョージ・ハーバート・ペンブローク伯爵に嫁いだ。その夫妻の息子シドニー・ハーバート卿は、長じて英国の戦時相を25年から55年までの30年間務め、53年のクリミア戦争開戦の英国側当事者の一人となった。一方のヴォロンツォフ将軍は、その53年初に病を得て引退、陸軍元帥に叙された56年にオデッサで没した。

ヤルタにほど近いアルプカにヴォロンツォフ将軍が建てた宮殿は、1945年2月のヤルタ米英ソ三巨頭会談で英国代表団の宿舎となったのだが、『ミトローヒン文書』によれば、ヴォロンツォフ宮殿の英国代表団とリヴァディア宮殿の米国代表団の会話は、KGBにそっくり盗聴されていたという。

(後編に続く)