「論語」に学ぶ

北尾 吉孝

先月10日NIKKEI STYLEに掲載された記事、『相手に届かない言葉は無意味 「論語」を経営の指針に ユーグレナ社長 出雲充氏(7)』は、冒頭次の言葉で始められます――私が「論語」を勉強し始めたのは10年ほど前、事業の相談でSBIホールディングス社長の北尾吉孝さんにお目にかかったのがきっかけでした。起業して数年がたっていましたが、経営者としての未熟さを日々感じ、「もっと人間として成長したい」「重要な判断をする際に軸となるものが欲しい」と思っていたので、率直に「北尾さんは日々お忙しい中、何をどうやって学んでいるのですか」とお聞きしました。そこで「論語」を薦められたのです。

その後様々な形で『論語』を学ばれた出雲さんですが『今、一番深く心に刻んでいるのは「子曰(いわ)く、辞は達するのみ」という一節』とのことです。『論語』と私で言えば、事業経営を進めるのに或いは自分の生き方としても、ふっと思い付いたり基本に据えながら考えたりしている章句が沢山あります。それらは今から9年前5月と8月に上梓した2冊の『論語』本、『ビジネスに活かす「論語」』(致知出版社)及び『仕事の迷いにはすべて「論語」が答えてくれる』(朝日新聞出版)、で詳述した通りです。此の両著でも御紹介した孔子の言、「力足らざる者は中道にして廃す。今(いま)汝(なんじ)は画(かぎ)れり」(雍也第六の十二)とは、私が非常に大事にしている言葉の一つです。

上記は孔子が弟子の冉求(ぜんきゅう)に対し、「力が足りない者は、中途半端で止めてしまうものだ。今のお前は初めから見切りをつけているではないか」と叱咤激励する場面で出てきます。孔子は「そんなことでどうするのだ、もっと自分の可能性を試してみなさい」と言いたかったのだと思います。私は、自分の能力を自分で限定し自己規定してしまうとか、途中で諦め、出来ないと思い込んでしまうといった形で限ってしまわないようにしています。天から与えられた能力を本当に全て開拓し尽しているのか、と思うからです。出来得る限りの努力で以て試した上で駄目なら駄目と言えるかもしれませんが、十分な努力もせず諦めてネガティブに考えないことが大切だと思います。

『論語』に孔子が弟子の子貢(しこう)に対し、「我を知ること莫(な)きかな…なかなか自分のことをわかってくれる人がいないなぁ」(憲問第十四の三十七)と珍しく嘆いている場面があります。しかし孔子は直ぐに、「天を怨みず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。我を知る者は其れ天か」(同)と言っています。つまりは、「天を怨んだり人を咎めたりしても仕方がないな。自分は身近なところから修養に努めて高遠なことに通じていくのみだ。天はきっと、そんな自分のことをわかってくれるだろう」と言っているのです。私は、自分の思うように行かず苦しい時にも愚痴をこぼさず、自分の能力・修養の不足を嘆いて「画れり」を排し発奮し、自分の可能性を試すべく努力を積み重ねて行く姿勢こそが、最も大切だと思っています。

二十篇約五百章の章句から成り立つ『論語』には、何時の時代にも通用する普遍性を有した大切な考え方が簡潔で本質的な言葉に凝縮して表現されており、人生・仕事・国家・社会の在り方等々あらゆる問題に思い巡らせる時そのヒントとなる言葉が書かれています。自分の経験が増すに連れ書を読む深さというものは変化してくるわけですから、我々は正に自分の状況に照らしつつ主体性を持って『論語』に挑戦し、何度も繰り返し読む中で時々に新しい発見をし一番ぴたっとくる言葉を噛み締めて、それを日常生活の中で活かして行くということが大事なのだと思います。

自分を励まし行動を促すような片言隻句をどれだけ持っているかにより、その人の人生は大きく変わって行くことでしょう。『論語』は私のバックボーンとしてずっとあります。同時に齢70歳を過ぎては『論語』のみならず、また『老子』を読み始めています。年を取り円熟すると『老子』が好きになるという人も結構いますが、今私が読んでいるのも此の年になってその思想の一端が理解出来るようになったからかもしれません。「功成り名遂げて身退くは天の道なり」とは、実にその最たるものです。そういう意味では『老子』或いは『易経』の世界というのも、ある年齢を超えたら益々「あぁ、なるほど~」となってくるのかもしれませんね。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年4月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。