『家系図でわかる日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社・5月16日発売)で、天皇陛下の先祖にどんな戦国武将がいるかを探ってみた。
かつて、アゴラに今上陛下は明智光秀の子孫だと書いたら、皇室に縁のある人もあまりご存じないようだったし、「不敬」だなどと見当外れの文句を言ってきた人もいた。
しかし、女系をたどっていくと、たしかにそうなのだ。明智光秀の娘であるガラシャと忠興の娘・多羅が臼杵城城主稲葉一通と結婚し、その子孫が公家の家系を通じて仁孝天皇の母である勧修寺婧子になったというのがひとつ。
さらに、忠興の長男に忠隆がいるが、関ケ原の戦いのあとの忠興との諍いで廃嫡されて京に住んだ。その正室は前田利家の娘で、二人の娘が、西園寺家に嫁いで、孝明天皇の母正親町雅子や、明治天皇の母中山慶子につながるので、少なくとも三つのルートでの子孫だ。
織田信長は大正天皇の生母である柳原愛子がその子孫であるし、信長の娘・徳姫と家康の長男・信康の娘である小笠原秀政夫人の登久姫からたどると小笠原→蜂須賀→池田を経て、仁孝天皇の母である勧修寺婧子になるので、家康の子孫でもある。
豊臣秀吉の子孫は、家康が根こそぎにしたから残っていないが、秀吉の姉・ともの次男である小吉秀勝は、浅井三姉妹のひとり江と結婚し、完子を残した。完子は淀殿の養女になって九条家に嫁し、その子孫は、いったん二条家に養子に出たが、幕末に九条家に戻り、大正天皇の貞明皇后につながる。
画像ではこの本のために作成した系図のうち、豊臣家や尾張徳川家と陛下の繋がりが分かる部分を抜き出して提供する。
貞明皇后はまた、三代将軍家光の娘と尾張藩二代目の光友の子孫でもあるので、家康の子のうちで男系では断絶している秀忠(将軍家は紀伊系になった)と義直(幕末の尾張藩主は水戸系になっている)の血脈がここで維持され、皇室に残っている。
このほか、野武士だったともいう蜂須賀小六とか、キリシタンを弾圧し島原の乱の原因をつくった松倉重政なども正真正銘の皇室の先祖である。
大名の娘が公家と結婚し、それがまわりまわって皇室に流れ込んでいるというわけだ。昭和天皇の香淳皇后は久邇宮家出身だが、その母親は島津久光の孫なので、そこからお由羅の方から、代表的なキリシタンだった京極マリアとか、猛女たちの系譜にもつながる。眞子さまの芯の強さもこのあたりからも来ているのかもしれない。