皇位継承問題の焦点:宮家について国民が知るべきこと

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最近、皇位継承問題について思うところがあって、集中的にさまざまな方と意見交換しているのだが、皇室と親族関係にある方、政治家、ジャーナリスト、学者などでも、意外な点についてご承知になっていない話が多いことに少し驚いている。

以前ほどでないが、やはり敬して遠ざけるところが多く、そもそも教育の場でも教えられない上に、基礎的な知識が共有できてなかったり、具体的な情報は主流マスコミを取り上げず、週刊誌とネットでしか扱われないことが原因であろうと思う。大事な皇室の問題について知識・常識が共有されずに議論されていることはまことに残念である。

そこで、これまでも部分的に取り上げたこともあるが、何回かに分けて皇室についての基礎知識で意外に知られていないことを解説してみたいと思う。

最近、刊行した『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)では、「おわりに」で皇位継承問題の現状について、かなり突っ込んだ話を書いているのだが(本当は中心テーマにしたかったのだが、それではあまり売れそうもないと編集部もいうので、ひっそりとした扱いになっているがかなりしっかり書いたつもりである)、それ以外にも、同じく皇室の現状についてかなり多くのページを割いている。

ここで紹介するのは、その簡単な抜粋である。

現代の皇室には三笠宮、秋篠宮、常陸宮、高円宮といった世襲の宮家がある。親王・内親王という称号を持てるのは二世王(天皇の子・孫)までである。大正天皇の子である三笠宮崇仁殿下や孫の寛仁殿下は親王であるが、寛仁殿下の娘である彬子さまは内親王ではなく女王である。

世襲宮家というのは、南北朝時代あたりに始まった比較的新しい制度で、江戸時代に確立した。

平安時代の後半あたりからは、皇位継承と関係ない男子は、門跡寺院に入れて子孫が増えるのを抑えていた。しかし、大覚寺統と持明院統が帙立する時代になると、いくつもの系統が皇族に留まることを望み、それが世襲宮家の起源である。

そのなかで、伏見宮家は、北朝の内部で、光厳天皇(1313年~64年[在位:1331年~33年])の子である後光厳天皇(1338年~74年[在位:1352年~71年])と崇光天皇(1334年~98年[在位:1348年~51年])の系統が対立し、後光厳天皇の系統が勝利して皇統を継ぐことになったときに、崇光天皇の系統に領地など与えて伏見宮を名乗らせたのが起源である。

ただし、のちに、後光厳系は称光天皇[在位:1412年~28年])を最後に断絶し、崇光系が皇統を閉めることになったのであるが、称光天皇の次の後花園天皇[在位:1428年~64年])の弟である貞常親王が伏見宮家を継いで、それが途絶えずに先の大戦の終戦まで続いたわけである。

江戸時代には、いろいろな経緯があって、伏見宮家のほか、桂宮、有栖川宮家が「世襲親王家」となった。さらに、1654年に東山天皇の第六皇子・直仁親王が新たに閑院宮家を創り、四つの宮家が皇位断絶に備えることになった。

明治以降は、それまで門跡になっていた法親王が還俗して、新たな宮家を創設したので、宮家の数は増えた。一方、宮家は養子を取れないことにしたので、断絶する宮家も出た。

ただし、未亡人や未婚の娘がいる限りは、家としては残った。また、宮家として残れなかった王は、侯爵ないし伯爵として授爵された。これを賜姓華族という。

桂宮家は淑子内親王が名乗ったあと廃絶し、閑院宮家も1842年に廃絶し、明治になってから伏見宮系が名跡を復活させている。

さらに、有栖川宮家は威仁親王親王の嫡男の栽仁王が1908年(明治41年)に22歳で病死され、威仁親王親王も1913年(大正2年)に薨去され、その祭祀は高松宮殿下が継がれた。

そうしたわけで、終戦の段階では、秩父宮、高松宮、三笠宮のほかには、伏見宮家系の11宮家だけが残っていたわけである(1910年の韓国併合後、元朝鮮国王(大韓皇帝)の李王家も宮家に準じるとされていた)。

その11宮家とは何か、また、皇位継承するとすればどの宮家なのかを次回に説明したい。