なぜ日本人は食べログが好きなのだろう?:通信簿に一喜一憂する日本人の性

食べログの評点方法が一方的に変更されたことで評価が下がった焼き肉チェーンが訴えた裁判で食べログを提供していたカカクコムが敗訴しました。アルゴリズムという計算方法を一方的に変更し、一部のチェーン店に不利な形となる変更をしたのは「優越的地位」であったと判断されました。

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この裁判の行方についてはずっと注目していたのですが、その判決よりも私が強く思ったことは「日本人って本当に点数評価が好きだよな」という点でしょうか?その評価の仕方の争いが注目されるということは基本的にはどっちもどっちな話なのです。訴えた側も評点が欲しく、点数が高ければ客が来るという点数頼みのところがあったわけです。

全ての日本人が点数評価を一番初めに経験するのが学校の通信簿とテストの成績。そして偏差値という日本の特徴的診断方法は「点数評価の国家」という非常に明白な基準を一番大事な成長期に植え付けるわけです。高校進学を控えた親は「内申書」が気になり、中学生の子供を持つ親は子供が学業に励みよい担任の先生に良い評価をもらうことが極めて重要な関心事になります。

しかし、この通信簿も正直、何処まで客観的かといえば疑問はあります。担任の先生の評価など、人間同士の接点の中で好き嫌いがどうしても出てしまうのです。ある先生はクラスで優秀な成績の子を好むし、ある先生は素直でまじめな性格の子を好むでしょう。リーダーシップのある生徒が高く評価されることもあればおべっかを使う生徒が得をすることもあります。

そして通信簿の評価は担任が変わるごとに大きく変わります。それこそ、食べログのアルゴリズムの変更どころではないことすらあります。それに一喜一憂するのが我々日本人の性と言えましょう。

今回の食べログの裁判を前にテレビニュースは街角で「飲食店を選ぶ基準は?」と多くの若者にインタビューし、その多くは食べログで〇点あればよさげだ、という自己評価基準を持っています。無数にある店から良さげな店を絞り込むにはこれほどわかりやすい方法はないということなのでしょう。一方の評価される側の店も0.1ポイントの勝負をするわけですから必死で経営を切磋琢磨しないと高い評点は取れません。そういう意味では飲食店の質の底上げ効果は確かにあるのでしょう。

しかし、その一方でバランスよい経営をしないと評点は上がりません。うまいだけではなく、客を満足させる接客に店の雰囲気も必要です。とすればすべての評価項目を満足させるために悪く言えば可もなく不可もなくという中庸な店づくりをしなくてはいけないことになります。3.2点とか3.3点の攻防はまさにこのことで「さて、果たしてこれでは尖った店は生まれる素地がないのではないか」という気もするのです。

例えばある洋食の店で「この店はどのメニューもまずまずだけどハンバーグだけは絶品である」という評価を客はどう表現するのでしょうか?

これは日本の高校、大学の進学者、更には就職を通じてうまく世渡りする人たちは食べログ3.3の人生だとも言えないでしょうか?

食べログの評点は日本のエッセンスなのかもしれません。

客側からすればその評点がないと店選びの判断できないだけではありません。評点が先入観を作り、「この店はおいしいんだ」という姿勢で臨めば「へぇ、さすが高評価の店は違うね」になるし、低評価の店で同じものを出したら「なるほど、こんなものなのね」になるでしょう。

私は東大生の評点ほど難しいものはないと思っています。「できる」という勝手な評価目線で話をすると「あれれ?」ということがしばしば起きるのです。つまり「何ができるのか?」のばらつきが非常に大きいわけです。要領がよいだけなのか、天才型なのか、コツコツ積み上げたのかによって全く評価は変わるわけですが、世では「東大」という勲章だけが先走りするのです。

評点は埋もれかけているものを引っ張り出すには都合がよいのですが、本当に実力あるものがもっと力を伸ばすには邪魔なのかもしれません。点数という看板を背負うのではなく、俺の店は期待を裏切らないという真の実力が本当の勝者である気がします。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年6月17日の記事より転載させていただきました。