闘い続けた政治家の生涯

鎌田 慈央

首相官邸HPより

わたしは常に「闘う政治家」でありたいと願っている。

凶弾に倒れた安倍晋三前首相は2006年の総裁選前に出版した著書「美しい国へ」の前文で自身が理想とする政治家像を上記のように述べていた。筆者は安倍氏がその言葉通りの政治家人生を歩んだと思う。

彼の闘う政治家としての気質はDNAに宿っていたものなのかもしれない。母方の祖父の岸信介は逆境と闘ってきた政治家であった。敗戦後、戦争犯罪者となりながらも、岸はその負のレッテルをものともせず、瞬く間に首相の座に駆け上った。

また、戦前の大国だった日本に思いをはせる岸は、日米安保条約に反対する何万の群衆の反対をものともせず、自身の権力と引き換えに強引とも言えるやりかたで日米安保を押し通した。

一方、父方の祖父の安倍寛は共に反骨心の塊のような政治家であった。平和主義的な考えを持つ安倍寛は大政翼賛会選挙の下で、非推薦候補として出馬して、官憲の妨害などがありながらも、信念をめげずに当選した。

方や、戦前のエスタブリッシュメント、方や反政府候補という相反する先祖を持つ安倍氏ではあるが、彼の共通項であった闘う政治家としての矜持はしっかりと引き継いでいた。

1993年に当選後した時から安倍氏は尊敬する岸信介の影響もあってか保守政治家として強く、誇れる国の実現に取り組んできた。日本政界の中でいち早く、北朝鮮による拉致問題の可能性を指摘し、自身が中心となって国民的な運動を活発化させた。そして、2002年に拉致問題の事実が北朝鮮に正式に認定されてからは、それまでの彼の主張が評価されて一躍時の人となり、2006年に戦後最年少の首相となった。

しかし、そこから順風満帆にはいかなかった。政治的経験が物足りなかったのか、第一次政権は閣僚が次々と不祥事と辞めていき、2009年の政権交代の遠因となる2007年参院選敗北の当事者となってしまった。それに追い打ちをかけるかのように若い時期から悩んでいた持病であった潰瘍性大腸炎も再発し、志半ばで政権から放り投げだされた。

だが、「闘う政治家」はそこで終わるような人ではなかった。安倍氏は一時は政治的に終わった人間だと思われていたが、下野していた約6年間の間で病を癒し、党内での信頼関係を再構築し、2012年にカムバックをすることに成功した。

闘う政治家は物議を醸すこと、批判されることも恐れなかった。日本がいわゆる「自虐」史観に陥っており、それを修正して国民が日本を誇れるようにするという歴史観は国内外でハレーションを巻き起こした。2007年に慰安婦問題を否定するような答弁を閣議決定した際は国内の野党だけではなく、国外のアメリカ議会までに批判された。2012年に再度権力者となってからは歴史修正主義者として海外から警戒されていた。

また、議会運営にも危うさが宿っていた。国会討論では幾度となく野党側にヤジを飛ばし、安易な発言で自身のスキャンダル追及の手を強めてしまったりもした。集団的自衛権の限定行使を容認し、安保法制を採択する際は祖父岸信介が用いたような強引ともいえる手法で事態を突破した。そのことから批判者から独裁者、ファシストと揶揄されることもあった。

しかし、そのような批判を闘う政治家は本気にはしなかった。それはさらに批判者の警戒感を大きくするという副作用を生んだ。だが、祖父がそうであったように、安倍氏は偉大な政治家は時には国民の反対を押してでも、やり遂げなければならないことがあると信じていた。その決意はデモ隊が国会前で群をなして安保反対を叫んでいた際に見せつけられた。

安保法制だけではなく、自身の支持基盤であった保守層が好まない政策も怯まずに実行した。例えば、2度の消費税増税や事実上の移民解禁政策などは、経済的にハト派で、移民の流入を限定的にしたい保守派の移行とは逆行する政策であった。

だが、これらの政策も国家百年の大計を思慮していた安倍氏だからできたことであった。安倍氏は2007年の所信表明演説で以下のように述べていた。

「美しい国、日本」の実現に向けて、次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描いていくことこそが私の使命であります。

彼がナショナリストとしての一面はあたかも日本を以前に巻き戻したいことと同一視される時もあったが、彼の目は常に未来を見据えていた。彼は誇りとする日本の遺産を後世に残すためには相手が誰であっても、批判されることを恐れずに闘う姿勢を見せ続けた。未来に生きる世代への責任が安倍氏のファイティングスピリットを鼓舞してきた要因だったのかもしれない。

安倍氏が死去してから、海外メディアでは多くの追悼文が掲載されている。そのなかでも、安倍氏の伝記も書いた、日本専門家のトバイアス・ハリス氏の論考から抜粋した下記の引用文が闘う政治としての安倍氏の人生を体現していた。

しかし、彼は政治家としてだけでなく、正しいと信じるもののために戦った人、敵対する者との戦いから逃げない疲れを知らない政治家、そして、しばしば病に倒れ、2007年の辞任という屈辱に打ち勝ち、日本のビジョンを追求した人として記憶されたいと思っていることは間違いないだろう。

世間は安倍氏を偉大なる外政家として記憶し、し続けるかもしれない。だが、筆者の脳裏で蘇る安倍晋三像は度重なる逆境を幾度となく乗り越え、自身の理想の実現に邁進したファイターとしての安倍晋三である。