政策提言委員・経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員 藤谷 昌敏
安倍元首相の暗殺事件について、捜査が進展し、いろいろなことが明るみに出てきた。犯人山上徹也が統一教会に対して恨みがあったこと、安倍元首相と統一教会が近い関係にあると思いこみ、つけ狙っていたこと、銃は手製だったこと、政治的思想的背景はないことなどが徐々に判明した(7月17日現在)。結局のところ、犯人山上の動機は、自分の人生が滅茶苦茶にされたことの恨みを安倍元首相にぶつけたものに過ぎなかった。
安倍元首相暗殺の報に接して、筆者が思い起こしたのは、大正時代に暗殺された「平民宰相」原敬(はらたかし)のことだった。原敬暗殺事件と今回の事件には、いくつかの類似性がある。原敬はなぜ暗殺されたのか、その背景は、その後日本はどうなったのか、そして今後の日本について考えてみたい。
暗殺された原敬
1921年11月4日、当時の原敬首相は遊説先に向かう途中の東京駅で胸を刺され暗殺された。享年65歳、犯人の中岡良一はその場で現行犯逮捕され、その後無期懲役となった。原が首相就任中は、第一次世界大戦の只中で日本は連合国側として参戦し、山東半島、青島などでドイツと交戦した。一方では、共産主義化したソ連に圧力をかけるため、1922年までシベリアに派兵を継続していた。
原は岩手県出身、盛岡藩家老の家柄で、薩長などの藩閥政治と一線を画して、就任当初は「平民宰相」と呼ばれ、国民から圧倒的に支持されていた。だが、原が不運だったのは、当時、世界で6千万人以上の死者が出たとされるスペイン風邪(インフルエンザ)が猛威を振るっていたことだ。日本でも約38万人が死亡した。さらに第一次世界大戦の終焉で、それまで戦争景気に沸いていた日本は急激な大不況に陥った。
戦争(シベリア出兵)、感染症、大不況という3つの悪条件が重なったことで、大正期の日本では民衆の不満が急速に高まっていった。
暗殺者の中岡良一は、父を早く亡くして困窮した中で育ち、事件当時は19歳で東京の大塚駅に勤務していた。中岡はいつしか、「世の中が不況でシベリア出兵も終わらず、汚職や腐敗が流行るのは原敬が悪政を強いているからだ」と思い込むようになった。
中岡に大きな影響を与えたのは、原敬の暗殺前の1921年9月に起きた安田善次郎暗殺事件だ。安田善次郎は安田財閥の総帥であり、暗殺者の朝日平吾は、富豪で有名だった安田に対し「国家や社会に富を還元していない」と思い込んで殺害した。安田は、実は日比谷公会堂や東大安田講堂を無償で寄付した慈善家だったが、生前は「寄付は名声を得るためのものではない」として世間に公表していなかった。
当時のメディアや一般庶民は、犯人の朝日に同情的で、むしろ暗殺は世間で称賛された。この事件が庶民の中にあった不満のはけ口となったからだ。中岡は、こうした社会情勢を見て、原敬暗殺も許されるものだと自分に免罪符を与えてしまった。
原敬は、藩閥政治家と違い、支持基盤が選挙による投票であったため、支持拡大を図るために各地を遊説していた。この点も安倍元首相と同様、暗殺者にとっては非常に狙いやすい標的となってしまった。
米国を重視した原敬と安倍元首相
原敬は、第一次世界大戦に対し、日本が参戦することは、ドイツの恨みをかうだけではなく、米国の悪感情を招きたる失策とみていた。原はもともと、米国のこれからの国際社会での立場を重く見ており、今後の対外政策、ことに対中国問題において、対米関係を最も重視していた。
原敬は、「米国は国際社会におけるポテンシャルだけではなく、中国に対する影響力からして、将来の日本にとって重要な関係にある。中国との関係で様々な問題を処理するにあたって、米国との関係の安定化と緊密化は最も重要だ。米国といったん紛争が生じた場合、日英同盟や露仏も頼むに足りないものとなっている。したがって、あらゆる方法で現在困難な状況にある米国との関係を良好なものにしていき、できれば緊密な提携関係を打ち立てなければならない」と考えていた。
当時、山県有朋ら藩閥勢力が米国に対抗して、日露同盟を推進していたのに対し、原は日英同盟が既に空洞化していると見抜き、日露同盟の将来の有効性も疑問だと見ていた。原にとっての日米関係は、日本の将来の命運を分けるものであり、日米提携の原則は将来の日本の安全保障をにらんで極めて重要なものととらえていた。(川田稔「戦前日本の安全保障」より)
一方、故安倍元首相は、2015年9月に憲法解釈を変更し集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法を成立させ、自衛隊の海外活動を拡大させた。さらに2016年5月にはバラク・オバマ米大統領(当時)の広島訪問を実現し、ドナルド・トランプ大統領とは蜜月関係を築いて、G7首脳会議などでトランプ氏と各国との橋渡し役も担い、日米関係を一層強化した。さらに日米豪印が参加したクァッド構想を自ら提唱してリードし、アジアのみならず世界を見据えた安全保障に貢献した。
原敬暗殺後の日本、今後の日本は
原暗殺後、日本はワシントン体制に参加し、東アジアの平和安定を期待されたものの、その後の世界恐慌の中で満州事変(1931年)、翌年の5.15事件を契機として、昭和陸軍の時代へと突入して行った。そして1941年12月8日、運命の日米開戦を迎えるが、原敬が暗殺されてから、わずか20年ほどのことだった。
結局、日本は、原敬が最も恐れていたシナリオに向かって突き進んでしまったが、原敬の時代も安倍元首相の時代も対中国を主軸とした安全保障体制をどう築くのかが大きなテーマであることに変わりはない。
今、日本の周辺は、ロシアによるウクライナ侵攻が長期化し、中国の尖閣諸島への圧力も続き、台湾への武力侵攻さえ懸念される時代となっている。世界の首脳と対等に話せるような安倍元首相が亡くなられた今、日本はこれからどうなるのだろうか。
安倍元首相が発信した過去の戦争に対する深い反省と平和への理念、強い日本を取り戻そうとした理想を継承しながらも、日本を卓越した指導力で引っ張り、国民に寄り添う新たな指導者の誕生を切に祈るものである。
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藤谷 昌敏
1954年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程修了。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA未来情報研究所代表、一般社団法人経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員。
編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2022年7月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。