批判に応じる

フォーブスジャパンの記事(21年3月11日)に、「リーダーは誰しも、キャリアのどこかの時点で(あるいは何度も)間違っていると言われることがある。相手の指摘が合っていることもあれば、そうではない場合もある。しかし、批判の正確性は別にして、その対処法を理解しなければならない」、と書かれた箇所があります。之は、リーダーに限った話ではありません。私見を申し上げれば批判への応じ方としては大きく、①素直に認める、②相手にしない、③徹底して戦う、の3通りがあります。どう応じるかはその人の生き方・信念の問題だと思います。

例えば何時も正しいとは限らぬ世論というものに応じるのは、概して難しいところだと思います。時として捏造された世論自体をまともに受け止め自己の反省材料として、自分自身を自己批判して自省する程度であれば良いですが、それで気が病んでメンタリーに障害を受けるような人も少なからずおられます。

戦国武将の島津義弘が残したとされる所謂「薩摩の教え」によれば、「一、何かに挑戦し、成功した者」「ニ、何かに挑戦し、失敗した者」「三、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者」「四、何もしなかった者」「五、何もせず批判だけしている者」を人間の順序とするようです。最低最悪なのが「何もせず批判だけしている者」ということで、一人前のことを言う人に限って何もしない人は意外に多くいるように感じます。要するに之は「胆識を有していない人」、つまり「勇気ある実行力を伴った見識を持っていない人」を指しています。こういう人は、何等か見識あり気に見えながら批判に終始し何ら挑戦することもなく、だから当然失敗することもありません。

対照的に何時もどんどんと挑戦し続け、如何なる事態に直面しようとも主体性を持ち、自分の考える筋を通し義を貫くという姿勢を崩さないよう実践している人間は、常に世の毀誉褒貶と隣り合わせです。時として褒められ又時としてけちょんけちょんに貶される中で、人間というのは強くもなって行くわけですが、私自身これまで唯々自分の良心に顧みて「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」(『孟子』)の精神の基、世に一々の毀誉褒貶を顧みぬよう努めてきました。私が批判に応じる場合は常々人に対してではなく、天がどう見るかということが問題なのです。

もちろん人夫々の生き方・信念で人の言う良し悪しに応じるものの、そもそも人の言を気にする必要性は果たしてどれ程あると言えるのでしょうか。此の世に生を受けた以上、我々は自らに天から与えられた使命を明らかにし、その使命を果たすため命を使わねばならず、人がぐちゃぐちゃ言うことなど気にしていても仕方がありません。「命(めい)を知らざれば以て君子たること無きなり」(『論語』)と孔子が言うように、天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、それを知るべく自分自身を究尽し、己の使命を知って自分の天賦の才を開発し、自らの運命を切り開くのです。

以上、私は世の毀誉褒貶など一々気にせずに、自分が自分の良心に従って正しいと思う事柄・世のため人のためになると確信する事柄を全身全霊で徹底的に遣り上げることが、大事だと思っています。正に「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』)という世界で、人を超越し天と対峙して自分の使命として堂々と為して行くのです。

世に毀誉褒貶が常に付き纏う中にあって、駄目だったらばその責任を自ら取れば良いだけでしょう。勇気を持って何かに挑戦して初めて、何のために生まれてきたかが段々と分かってきます。「何もせず批判だけしている者」ではいけません。自分自身の良心に問うて自分が信じた道を唯ひたすらに突き進んで行くのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年7月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。