フランスのルイ14世がベルサイユ宮殿を建設して豪華な舞踏会や広大な庭でバレエのイベントをしたり贅沢をしたことは、庶民を苦しめたといわれます。
しかし、ルイ14世の宮廷に出入りして優雅な人物として評価される競争に貴族たちはうつつを抜かし、武芸はおろそかになり、平和がもたらされたのです。外国人もみんな最新流行を知りたくてベルサイユにやってきたので、フランスの国威も経済も大いに麗しました。
それより少し前の時代には、豊臣秀吉が同じことをしました。ここでは、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)から聚楽第行幸と醍醐の花見を描いた部分の一部を紹介します。
聚楽第行幸
秀吉は、信長さまが安土城に行幸をお迎えすることを夢とされていたのと同じように、大坂城に帝をお迎えできればという気持ちが芽生えてまいりました。
いっそのこと都を難波の地に移したら、と勧める人もおりましたが、平清盛さまが福原(神戸市)に遷都したことがきっかけで、平家滅亡になったからやめたほうがいい、という公家衆や僧たちもいて、なかなか難しそうだというので、沙汰止みになっていました。その頃、秀吉は信長さまを引き継いで、平朝臣でしたので、なおさらです。
天正13年(1585年)の夏に、近衛前久さまの猶子になって関白となりましたので、京に住んで、帝の近くにいなければということで、「内野」と呼ばれていた平安京大内裏の跡地に、聚楽第と呼ばれる巨大な城を築きました。聚楽第は「喜びが集う邸宅」といった意味だそうでございます。
そして大名屋敷を、最初は聚楽第を囲むように、ついでそれより東側の、現在の府庁周辺に集めましたので、御所から見ると、武家屋敷の向こうに金ピカの聚楽第が輝くといった風情でございました。現在の京都御苑を囲む生け垣は、明治維新後にできたものなので、御所のまわりは、塔頭が並ぶ禅寺の境内のような趣でした。
この聚楽第は、最初から帝の行幸をお迎えすることを予定して創られたものでございます。なにしろ、室町時代には、武士のあいだでも上司を自宅にお迎えすることほど名誉なことはなかったのです。
貴人をお迎えして、同僚である周りの武士を集め、能などのアトラクションをいろいろ用意し、豪華な食事を提供し、お土産を出すわけで莫大な費用がかかります。その代わりに、同僚たちより少し高い立場となって、指示に従うよう求めることができるわけです。
帝の行幸は、足利義満さまが二度、北山第でお迎えし、五代将軍・義教さまが花の御所にお迎えして以来のことで、天下が治まったことを象徴する行事だったのでございます。
そして、天正16(1588)年4月14日、新しい帝と上皇さまを、聚楽第にお迎えする日がまいりました。
秀吉は御所へ準備が整ったことをお知らせに参内し、それを受けて帝の行列が御所を出ました。鳳輦(ほうれん)は、近衛大将である鷹司信房さま、西園寺実益さまに先導され、後ろには織田信雄さま、德川家康さま、それに豊臣家から秀長、秀次、秀家が従いました。そのあと、秀吉の行列が続き、ここに諸大名が参加しました。
秀吉は5日間に渡っておもてなしをし、合わせて銀5,530両に米800石、公家や門跡寺院に領地を8,000石と大盤振る舞いをいたしましたので、公家衆や伝統的な名刹もすっかり秀吉贔屓になりました。
もちろん、こうした接待は家臣たちや公家衆が、前例などを調べて準備したものですが、秀吉もことこまかに指示を出しておりました。こういう仕事をさせたら、秀吉に叶う人はいません。それに、なにしろ私がついているのですから、鬼に金棒です(笑)。
また、このときに、織田信雄さまや德川家康さまをはじめとする大名は、帝の前で秀吉への忠誠を誓われました。
醍醐の花見
この年の3月15日に、皆さまもご存じの「醍醐の花見」を秀吉は開きました。3月中旬に花見というのは、太陰暦だからです。醍醐寺の三宝院に、私や茶々や竜子など側室たち、そして前田利家さまの妻・まつさまなど、大名の奥方たちを集め、自分も楽しみながら、世話になった女性たちも喜ばそうという、秀吉らしい心遣いでした。
この花見の前には、平安時代に建てられたまま残っている五重塔など、山内の建物を修理して、各地から700本もの桜を移植させました。雨が続いて心配いたしましたが、当日は晴れて風もなく、桜も満開でございました。
輿の行列では、最初に私が、次は茶々(西の丸殿)、三番目は竜子(松の丸殿)、それから信長さまの娘である三の丸殿、利家さまの娘である加賀殿、利家夫人のまつさまが続きました。家中に仕える女性数百人にも仮装させて行列をさせました。
宴席では、私の次に竜子が茶々より先に杯を受けたがって、茶々と言い争いになったのですが、まつさまが「歳の順なら私が」と言って収めました。竜子が歳上ですし、京極氏は浅井氏にとって主君ですから、竜子のほうが序列が上だったわけです。その一方、茶々は秀頼の母親ですから、それなりの格を与えなくてはならないのですが、はっきりした形で序列を示す機会はあまりなかったので混乱したのです。
女性たちには、行列の衣装のほか着替えを2回させ、着物は全て新品で、秀吉からのプレゼントでした。秀吉は、女性たちと一緒に、醍醐の山にしつらえられた八軒の茶屋を巡って楽しみました。茶屋には露店が設けられ、扇・装飾品・人形・文房具・餅や菓子などが用意された夢ようなの世界でございました。
「深雪山 帰るさ惜しき 今日の雪 花のおもかげ いつか忘れん」。
このときの秀吉の歌です。そして、「ともなひて ながめにあかじ 深雪山 帰るさ惜しき 花のおもかげ」というのは私の詠んだ歌です。「深雪山」は醍醐寺の山号です。