最新号の月刊「文藝春秋」(2022年9月特別号)が<ウクライナ戦争と太平洋戦争>と題した「創刊100周年特別企画」を掲載。いずれも連日テレビに出演中の小泉悠講師(東大)と高橋杉雄室長(防衛研究所)による対談〈ウクライナ戦争「超精密解説」〉や、「自衛隊大物OBは告発する」と題した岡部俊哉元陸幕長へのインタビュー取材など良質な記事が並ぶ。
そう思いながら誌面をめくっていると、祖母の兄に当たる草鹿龍之介の「運命の海戦」と題された「文藝春秋」1949年(昭和24年)10月号の記事が目に飛び込んできた。記事を読み終え、さっそく後悔した。
なぜなら、「文藝春秋が報じた軍人の肉声」と題した辻田真佐憲(「近現代史研究者」)の記事中の見出しであり、辻田が記事を、以下のとおり、締めたからである。
「運命の五分間」はミッドウェー海戦の代名詞となった。/ところが、である。この説は現在では否定されている。本当はもっと時間を要したはずで、五分は明らかに誇張だったのだ。草鹿の真意はわからないが、みずからの責任をごまかそうとしたのかもしれない。/とはいえ、この回想が無駄になるわけではない。少なくとも、草鹿が戦後なお事実を潤色しようとしていたという証拠にはなるからだ。/証言はやはりできるだけ多くの当事者にさせておいたほうがよい。
もちろん、多少の「誇張」はあったであろう。当時の「文藝春秋」編集部が、あえて誇張させた可能性を、私は疑う。
だが、たとえ誇張だとしても、草鹿が「みずからの責任をごまかそうとした」ことになるのだろうか。それがなぜ、「草鹿が戦後なお事実を潤色しようとしていたという証拠にはなる」のか。まるで理解できない。
そもそも「この説は現在では否定されている」というが、その論拠も明示されていない。おそらく、ベストセラーとなった半藤一利著『昭和史』(平凡社)に依拠したのであろう。なかで、半藤はこう述べていた。
『運命の五分間』だ、などという説が今も通用していますが、そんなことはありません。『運命の五分間』もヘチマもない。日本海軍は勝ちに驕り、うぬぼれのぼせ、敵の航空母艦など出て来ないと思い込んでいたのです。ですから待ち伏せされているなどとつゆ思わず、はじめから魚雷など放り出して陸上爆弾にしていたのが実状だと思います。戦後、私は当時の機動部隊参謀長、草鹿龍之介元中将に会って話を聞きましたが、草鹿さんは『驕慢の一語に尽きます』と言い、それ以上はあまり語りたがらなかったのが強く印象に残っています。
あえて百歩譲って、半藤説に理解を示すとしても、『驕慢の一語に尽きます』と言い、それ以上はあまり語りたがらなかった草鹿が「みずからの責任をごまかそうとした」というのだろうか。間違っても、「草鹿が戦後なお事実を潤色しようとしていた」と断じる証拠にはなるまい。
「運命の五分間」は定説とされてきた。基本書の『戦史叢書』(防衛研修所)もそう記し、自衛隊の学校でもそう教育してきた。かつて私も、そう教育された。だから事実とは限らないが、勝手な想像を膨らませ、それが「実状だと思います」(半藤)と活字で述べたり、論拠も示さず「現在では否定されている」(辻田)などと断じたりするのは、歴史家の資格を欠く。
しかも半藤は、「文藝春秋」2005年(平成17年)11月号の「決定版」と銘打たれた大座談会「日本敗れたり――あの戦争になぜ負けたのか」でも、こう放言していた。
草鹿龍之介参謀長は、たしかに航空畑ではあるけれど、飛行船の専門家なんですね。その下に航空参謀の源田実という、戦闘機の専門家がようやくつきます。まともに頼りになるのは源田さんだけ
このように、草鹿の資質や能力をほぼ全否定したあげく、「南雲長官は、どうしたらいいか判断できず、草鹿参謀長の顔を見る。草鹿参謀長も困って、源田実の顔を見る。(中略)そこから一時間あまり、モタモタして何もしない」と見てきたような作り話を述べながら、「草鹿さんに取材したことがあるんですが」と煙幕を張りつつ、「ぜんぜん充分じゃなかったわけです」云々と誹謗罵倒した(詳しくは拙著『司馬史観と太平洋戦争』PHP新書)。
確かに草鹿は一時期、ドイツの飛行船「ツェッペリン」に同乗していたが、その前後だけでも、海軍航空隊附、第一航空戦隊参謀、航空戦教範起草委員、海軍航空本部出仕等に任じられている。それでは不十分というのだろうか。だとしても、「一時間あまり、モタモタして何もしない」との断定が史実である根拠は明示されていない。
もし、そこまで無能な海軍士官だったのなら、なぜ、その二年後、連合艦隊参謀長(その後、軍令部次長、第五航空艦隊司令長官)に任じられたのか。
月刊「文藝春秋」はいつまでこんな記事を載せ続けるのか。