信長・秀吉・家康の個性豊かな母親たち

令和太閤記 寧々の戦国日記」では、寧々の回想という形をとっているので、秀吉の母であるなか(大政所)をはじめ女性たちの話もたくさん出てくる。

ここでは、秀吉、家康、信長の母親たちについて、主として、本の内容から少しずつ紹介しておく。

【秀吉の親戚は母の縁者ばかりで父の親戚は不明だった】

なにしろ、秀吉も義母の「なか(大政所)」も秀吉の父親である弥右衛門の話になると口を濁しますので、あまり詳しく聞けなかったのでございます。

確かな話は、秀吉も義母も、弥右衛門の供養をしようなどと言ったことはありませんし、墓がどこにあるかも聞いたことすらございません。弥右衛門の親戚もおりません。二人とも、あまり良い感情は弥右衛門にもっていなかったのは確かなのです。

なかには妹が何人かいました。いちばん上は、岸和田城主になった小出秀政の奥方です。幕末の丹波園部藩主のご先祖でございます。関ケ原の戦いの前に福井城主だった青木秀以の母や、福島正則の母も妹ですし、加藤清正の母は従姉妹でございます。

秀吉の父方の親戚は私も存知ません。

【長浜城主に秀吉がなると大政所も陳情を受けたりした】

私(寧々)だけでなく、義母のなかにも秀吉の母ということで、地元の有力者が近づいてくることがありました。長浜の町に人を集めねばということで、朱印地にして税を免除したのでございますが、そうしたところ、近在の農村から引っ越す人が急増して、田畑を耕す百姓が足らなくなるという村も出てまいりました。

そこで、奉行たちが秀吉に相談して、この措置を停止すると言い出したものの、町人たちは猛反対!なんと、義母のところに陳情にでかけたのでございます。義母も、それは困っているだろうと同情して、秀吉に意見したものですから「おっかあには敵わん」とか言って、元通りにしたということもございました。

【大政所の死去で家族は崩壊してしまう】

7月22日に義母のなか、つまり大政所が京の聚楽第で亡くなってしまったのです。秀吉は急ぎ帰洛したのですが、間に合いませんでした。肥前名護屋にいた秀吉のもとに危篤の報せが届いた日に亡くなっていたのです。秀吉が京都に着いたのは8月2日で、大坂ですでに亡くなったことを聞いた秀吉は、悲しみのあまり卒倒してしまいました。

秀吉に似て、元気いっぱい好奇心のかたまりのような義母でした。よく怒られもしましたが、亡くなってみると、義母の存在にずいぶんと助けられていたことを身につまされることがいろいろ起きてくるのでした。

もともと身分の低い農民の子である秀吉は、生まれながらの大名などと違って、家族思いでした。そして親戚の人たちも、互いに悪いようにはしないだろうという甘えがあったように思います。しかし、若い人たちは自分たちの浮沈を主人に託していますから、欲が出ますし、命がけで勝負を賭けてくるのです。

私も何かできるとよかったのですが、義母のなかが死んでいたので、秀吉の姉で秀次の母である「とも」は、夫の三好吉房と一緒に秀次の領国である清洲城にありました。「とも」も「なか」が亡くなってからは、京にもあまり来ないようになっていました。

わたくし自身は豊臣家の女主人として家中をよく治めているつもりだったのですが、改めて義母の後ろ盾があってのことだったと身につまされたというわけです。

もし、江の夫で秀次の弟である小吉秀勝が生きていたら、そのあたりの調整役ができたでしょうが、朝鮮で死んでいました。やんちゃな我がまま坊やでしたが、彼なら火中の栗を拾ってくれそうでした。

【家康の母は刈谷の水野家の娘だが、水野氏が今川から織田に乗り換えたので離縁され刈谷に帰り、のちに知多半島の久松家に再婚した。慶長7年8月28日(1602年)没】

桶狭間の戦いで、家康さまは先鋒隊として活躍されたのですが、今川義元さまが桶狭間で討たれたのちは、駿府に帰らず岡崎城に留まられました。そして、最初は織田方と小競り合いもされましたが、母親(於大さま)の兄である水野信元さまの仲介で、信長さまとの同盟に踏み切られました。ただし、今川といきなり手切れだったのではありません。

このとき、家康さまの奥方の築山殿は、長男の信康さまと長女の亀姫さまと一緒に、駿府で実家の関口親永さまのもとにおられました。家康さまは妻子を岡崎に呼ぶため、今川と硬軟織り交ぜて交渉され、なんとか成功されました。

それでも、家康の母である於大さまが築山殿たちを岡崎城に入れさせなかったとか、関口夫妻は今川氏真さまの不興をかって殺されてしまうなど、いろいろあったのですが、信康さまは勇猛な武将として育たれ、信長さまの長女である徳姫さまと結婚されました。

家康の次男である秀康は秀吉の養子になったのですが、実質的には人質です。しかし、最初、家康は異父弟の久松定勝をと考えたのです。ところが、断固それを阻止したのは、家康の母である於大でした。

秀吉のもとに石川数正さまを寄越して「信雄さま、秀吉さま両所の和睦は天下万民のためにめでたい」と言わせたので、単純な秀吉は喜んで、「家康殿の縁者のどなたかを養子に迎えたい」といったのです。

このころ、家康さまに限らず、全国の大名の多くは、毛利輝元さまも、上杉景勝さまも、秀吉にいちおう敬意は払いましたし、場合によっては人質も出したのですが、上洛して臣従するというところまでには、皆さん時間がかかりました。

先に順番だけお伝えしておきますと、上杉景勝さまが天正14年(1586年)6月、家康さまが天正14年10月、毛利輝元さまが天正16年(1588年)7月です。そして、その輝元さまより前に、足利義昭さまが天正15年(1587年)に備後から京に移られました。

家康さまは、秀吉の提案を受けて、久松俊勝さまと家康さまの母である於大さまの三男で、伊予松山藩松平家の初代となった定勝さまに白羽の矢を立てました。ところが困ったことに、於大さまがどうしても承知しなかったのです。

「信康と交換だといって、次男の康俊を今川に人質に出したら武田に連れ去られ、逃げだしてきたが、可愛そうに凍傷で両足の指を失ったではないか。兄の水野信元も、信長の指示だと言って切腹させた。これまで我慢してきたが、可愛い末っ子の定勝は手元に置いて大事にしてるのに、それを人質に出すとは、どこまで母を苦しめる気か!」と烈火のごとく怒り大変な剣幕だったそうです。戦国の母は強いのでございます。

そこで家康さまは、次男の於義丸(秀康)さまを出すことにしました。

信長さまの母である土田御前は蜂須賀小六や信長の愛妾吉乃の実家生駒家とも関係がある、いわゆる川並衆の土田家でした。近江源氏の六角家の分家とも言います。実子は信長、信長に謀反をして殺された信勝、津城主などだった信包、お犬の方(細川昭元夫人)、お市の方と言われています。信長さまの死後は、信雄が面倒を見ていたが、信雄の除封後は伊勢上野城で信雄が面倒を見ました。

【文禄3年1月7日(1594年)没】

茶々・初・江の三姉妹と、お市さまがどうやって脱出したのかは、年長の茶々でも数えで5歳でございましたから記憶がないようです。早くから脱出して、尼寺にいたということをいう人もおりますが、お市の方の嫁入りのとき織田からついてきた藤掛三河守永勝という者が、信長さまのところに連れて行ったと聞いております。

嫡男の万福丸は逃がされたのですが、捕らえられたのちには、信長さまの命令で、秀吉が串刺しにする仕事をやらされました。長政さまの母は、伊香郡の井口家から来ておりましたが、関ヶ原で指を一本ずつ切り落とされて殺されました。

お市さまたちは、同母兄弟である伊勢上野城の織田信包さまのところにお世話になることになりました。信長さまとしても、お市さまと毎日顔を合わせるのは気まずかったということもあったのでございましょう。

信包さまは、信長さまの兄弟の中でもたいへん優れた方で、信頼も厚く、本能寺の変のころでも、嫡男の信忠さま、次男の信雄さまについで第3位の地位におられ、三男の信孝さまより上位でございました。大坂冬の陣の少し前まで健在で、茶々のよき相談相手でした。

もともと柴田さまは、信孝さまの後見役だった時期もあり、勝家さまは、4人の宿老のなかで、丹羽さまと池田さまが秀吉と手を結んだのに対抗するため、信孝さまが約束を破って三法師さまを手元に置くことを後押しされたのです。

もし、柴田さまが本気で秀吉と対抗するなら、冬になると雪に閉ざされる越前でなく長浜を本拠にでもされないといけなかったのですが、越前の北ノ庄城に留まられたままでした。

そして、お市さまの結婚というオマケまであったのです。お市さまと柴田さまの結婚は、一般的には信孝さまの斡旋でと言われますが、お市さまと信孝さまがとくに親しいわけでもなかったですし、お市さまと娘たちがお世話になっていた信包さまは、秀吉と行動を共にされているのですから、信孝さまの指図を受ける立場ではありません。

この結婚は、信長さまと同じ土田御前を母とする伊勢上野城の信包さま、それにお市の母である土田御前の意向だと聞いております。もしかすると、信長さまの生前から、そんな話もあったのかもしれません。

信長さまが亡くなったあと、お市さまや3人の娘たちの経済的な面倒を誰が見るかは難しい問題になっていましたから、土田御前が娘のことを心配して、旧知で独身である勝家さまに嫁がれては、と思いつくのはありそうなことだからです。岐阜城から清洲に避難していた土田御前が、信包さまらと相談して決められたということには納得がいくのです。

お市さまと3人の娘は、伊勢上野城から越前への旅に出られ、その途中に、浅井の旧領である湖北を通られました。宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちで訪ねてくる者もあったと、茶々から聞きました。小谷城下も通られましたから、お市さまにとっては、懐かしくはあるが、つらい記憶を思い出すことになる旅だったことでございましょう。