秀吉が千利休を切腹させた真相はこうだ

令和太閤記 寧々の戦国日記」では、秀吉の生涯のいくつもの謎解きに挑戦している。ただし、エンタメ小説でないので、想像力豊かに奇抜な説を唱えるのでなく、状況証拠からありえない可能性を排除し、徐々に真相に迫っていく。その内容の一部を紹介したい。

余談だが、このところ、統一教会問題について、私のFacebookやメルマガで主として時系列の分析から、安倍さんと統一教会の深い関係というのが事実でなく、問題はほかの人たちにあることを立証していっている。与野党の政治家などから自分の知っていることからしても、私の見立てはだいたい正しいという人が多く、これも歴史と政治評論を両方やっているお陰かと思っている。

さて、千利休と秀吉の出会いは、元亀年間に、浅井長政に裏切られて、信長が京都や堺は支配しているが岐阜との通行にも苦労していた時期だ。

このころ木下藤吉郎と名乗っていた秀吉は、京都の奉行だったが、堺にもたびたび行っていた。

とくに、今井宗久から鉄砲や弾薬を買い集めて、岐阜に運ばせる仕事をしていたが、この頃に今井の紹介で塩干魚を扱う魚屋をされていた田中与四郎、のちの千利休と初めて会っている。すでに茶人としてもよく知られ、珠光茶碗など名物を集めて茶会など盛んにされていたころである。

しかし、親しくなったのは、山崎の戦いのあと、天王山に宝寺城(山崎城)を居城としたことである。

天王山と淀川に挟まれた山崎の町は、今では京都府の大山崎町と、大阪府の島本市に分かれているが、昔は山城と摂津の国境にまたがったひとつの町だった。油座が営まれて、斎藤道三が、ここの油商人だったという噂もあったが、それは、今でいう都市伝説のようである。

千利休さまが作られたお茶室として、国宝になっている妙喜庵(待庵)は山城側、サントリー創業の地である醸造所は摂津側にある。

その後、豊臣政権の陰の実力者といわれるようになったが、そのあと不可解な死を遂げる。

利休という名は、天正13年(1585年)には、秀吉が禁中献茶をしたときも取り仕切り、参内するため居士号である「利休」を勅賜されたのである。黄金の茶室を設計したのも利休だし、北野大茶湯もプロデュースし、聚楽第内に屋敷を構え、秀吉の右腕ともいわれていた。大友宗麟が、大坂城に来たときには、秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言われたというほどであった。

ただ、そうなると、いろいろと讒言をする人も出てくるし、商人なのでえげつない金儲けをしなかったわけでもない。安い茶碗でも利休が名品だと言うと値がつくし、利休が自分で茶道具を開発して作らせ、高く売るということもあって、秀吉のところにも悪口を言う人が増えた。

また、秀吉との好みの違いも出て、博多の商人・神谷宗湛に茶会で秀吉が嫌いな黒茶碗を出して、「上様が嫌われるから、飾っている」と言い、秀吉への手前に黒茶碗を出して「黒は良き心なり」と言ってみたり、秀吉の気分を逆なでするようなことをした。

小田原の陣のときには、千利休のあっせんで秀吉とよりを戻すために来た山上宗二が生意気なこと言って殺された事件もあった。秀吉が堺の自治の象徴だった環濠を埋めることを命令したこともショックだっただろう。

そして、秀吉と利休に隙間風が吹いているという噂が流れると、秀吉に告げ口をしてくる者もますます増えた。

そんななかで、大徳寺三門(金毛閣)改修にあたって寄付をしていたことから、ご自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉や高貴な人に通らせていたということが発覚した。

そこで秀吉は、利休に「京を退き、堺で謹慎するように」と言ったが、秀吉から、謹慎しろとかいわれたら、弁解をして謝り、命令に従っておれば、また復活のチャンスは与えられるということは、利休自身がよくわかっているはずだった。

前田利家などは、寧々に取りなしを頼んだらと助言したが、「女の世話になって許されたとしても恥ずかしいだけ」といったという。

秀吉が、利休の娘を側室に望んだと言うのは単なるフィクションだし、朝鮮遠征に反対する利休さまが邪魔だったとかいう方のも、利休が朝鮮遠征にとくに反対していたわけでもなく、それを動機とするのは、現代の韓国に喜んでもらう作り話だろう。

茶の湯と高麗の文化に関係あるとか言う話も根も葉もない。利休の茶の湯と、半島が関連するというのもこじつけだ。井戸茶碗などを利休が珍重したのは確かだが、海外の日常の生活雑器を好んで使ったというだけのことだし、半島の方々がそういうものの美しさを大事にされていたわけでもない。

初老の老人同士の意地の張り合いが、こういうことになってしまったとしか見えまない。利休は身長が180cmもある大男で、堂々としていて、誰もが圧倒されるような侵しがたたかった。秀吉にも、なんとか屈服させたい気持ちもあっただろうし、利休も上手に詫びを入れる術をご存じなかったということでないか。

信頼関係で結ばれていた秀長がいなくなって、どうしたところで、これまでのような役割は与えられないで嫌気が刺したと云うこともあると思う。秀吉は、利休がいなくなると、文化プロデューサーとしてのかけがえのなさを痛感し、伏見城築城の時も「利休好み」でやれとか未練がましく言った。

千利休像(長谷川等伯画、春屋宗園賛)