旧統一教会騒動で顕在化した日本社会の幼稚な宗教観

今回も相も変わらずマスメディアの大衆操作にまんまと乗せられてしまった日本社会です。【安倍氏暗殺事件 assassination of Shinzo Abe】という論点がどんどんズレて行き、現在の日本社会は旧統一教会と接点があった自民党議員をヒステリックに【魔女狩り witch-hunt】しています。

この背景にあるのは、一糸乱れぬマスメディアのパワープレイに対する日本社会の深刻なまでの脆弱性があるのは自明ですが、今回はそれに加えて日本社会の【宗教 religion】に対する無理解に大きな要因があると考えられます。この記事においては、このどうしようもない「旧統一教会騒動」の問題点について、あえて論じてみたいと思います。

カントの宗教哲学

【宗教哲学 philosophy of religion】の基礎を確立したカント Immanuel Kantは、人間の理性が問う課題の流れとして次の3つを挙げています。

【形而上学 metaphysics】「何を知ることができるか」
【道徳 morality】「何をなすべきか」
【宗教 religion】「何を望むことができるのか」

さらにカントは、その先に「人間とは何であるか」を問う【人間学 anthropology】を第4の課題として挙げました。

ここで重要なのは、道徳は形而上学を前提とし、宗教は道徳を前提とすることです。つまり、宗教の根本の要素(本質)は、形而上学を前提とする道徳にあると言えます。

ここで形而上学とは、【神 God】に代表されるような経験を超えた知を理性で認識しようとする領域です。私たちが通常接する物理学など、経験による認識が可能な存在(事物)を対象とする【形而下学 physical sciences】を超えた領域であるため、経験的な【検証原理 verification principle】によって真偽の判定はできません。つまり宗教に対しては【論理実証主義 logical positivism】は無効であり、物理的に【反証不可能 unfalsifiable】な存在の有無を議論する必要があるのです。

この形而上学を前提とする道徳が宗教の前提となります。道徳については、先日[アゴラの記事]で一般論を説明しましたが、ここでもう一度簡単に振れときたいと思います。

道徳と教義

論理的な判断を【命題 proposition】といいますが、命題のうち「である」「でない」を述語として使う真偽の判断を【事実命題 factual proposition】といい、「すべきである」「すべきでない」を述語として使う善悪の判断を【規範命題 norm proposition】といいます。このうち、道徳を理解する上で重要となるのが「規範命題」に関する知識です。

規範命題で定めるルールを【規範 norm】といいます。また、「すべきである」「すべきでない」という述語を強化した「しなければならない」「してはならない」で規範を強制するのが【義務 duty】です。この規範命題を大前提、事実命題を小前提とすれば、新たな規範命題を次のように結論として導くことができます。

大前提:AならばBをすべきである
小前提:Aである
結 論:Bをすべきである

この論証を【べき論 deontic logic】と言います。ここで重要なことですが、論理的に規範命題を事実命題から導くことはできません。これを【is-ought problem】といいます。規範命題を導くには、大前提となる規範命題が必要不可欠なのです。それでは、大前提となる規範命題を求めるにはどうすればよいのでしょうか。実は、この【先験的 apriori】(先立つ根拠がない)な大前提の規範命題となるのが、個人の【倫理 ethics】、社会の【道徳 morality】なのです。

道徳:社会における善悪の規範(社会に依存する)
倫理:普遍性をもつ善悪の規範(社会に依存しない)

そして宗教の主体である【教会 church】(=宗教団体)が社会に広めようとする道徳が宗教の【教義 dogma】です。

教会は、独自の【宗教法 religious law】を持ちますが、これは教会の【教祖 founder】が先験的に得た独自の規範命題である「教義」を大前提として導く規範命題のことです。教会に入信した【信者 believer】は個人の意志で宗教法に従うことになります。宗教とは、教義を最高の規範命題として宗教法を運用する私的な意思決定システムのことなのです。神や仏といった反証不可能な存在は、先験的に得られる教義の存在の根拠となる【概念 concept】と考えるのが合理的です。

ところで、社会には宗教と同様のシステムを持つ思想があります。それは【政治 politics】です。政治の主体である【国家 state】は、独自の【法律 legislation】を持ちますが、これは【主権者 sovereign】が先験的に得た独自の規範命題である【憲法 constitution】を大前提として導く規範命題のことです。国内に居住する【住民 resident】は個人の意志で法律に従うことになります。

政治とは、憲法を最高の規範命題として法律を運用する公的な意思決定システムのことなのです。ここで教会の信者は国家の住民でもあります。したがって、宗教が政治に参加することは至極自然な成り行きです。もちろんその権利は【参政権 suffrage】として日本国憲法で保障されています。

なお、【史的唯物論 historical materialism】を基盤にする【科学的社会主義 Marxism】【反宗教主義 antireligion】という名の規範命題を大前提とする宗教とも言え、教義によって国民の高額の財産を国家に寄付させる点では、後述する「カルト」と一致します。共産主義の宗教弾圧は同業他社の排除に他なりません。

ネットの【サイバー・カスケード cyber cascade】も似たようなものです。教祖であるインフルエンサーは、論拠薄弱に先験的な勇ましい規範命題(〜すべきだ。〜しなければならない。〜が必要だ)を叫び、味方の偶像化(〇〇さんは信頼できる)と敵の悪魔化(××はダメだ)を繰り返します。これに対し信者は、競うように教祖に礼賛のリフを送り、異教徒には罵倒のリフを送るのです(笑)

信教の自由

日本では憲法によって国民の【信教の自由 freedom of religion】が保証されています。

日本国憲法第20条
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この憲法20条は、政治家を含めてあらゆる国民の信教の自由を認めるものです。宗教関連で憲法が禁じていることは、議員を含めた公務員がその立場を利用して特定の教会に資する行為を行うこと(憲法20条1項&3項)、および公金や公の財産を特定の教会のために支出すること(憲法89条)です。

日本国憲法第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

この禁止事項はいわゆる【政教分離 separation of church and state】の原則と呼ばれています。重要なことは、日本における政教分離とは、公務員(議員含む)が特定の宗教に利する行為を禁じる規定であり、信教の自由や参政権に踏みこむことはないということです。多くの日本の情報弱者が勘違いしていますが、国家の議員が宗教を信じることおよび教会の信者が政治に参加することは個人の自由であり、政教分離とは無関係です。

例えば、萩生田光一議員や生稲晃子議員が、旧統一教会の関連団体の要望に応じてその施設で政策を説明する機会を持ったことは何の問題もありません。旧統一教会の信者も国民であり、基本的人権の一つとされる参政権を持っています。特定の犯罪を行っていない限り、選挙権も持っています。もし信教を根拠に差別したとしたらそれこそ人権の侵害です。ましてや当時生稲議員は民間人でした。もし問題が生じるとすれば、それは選挙の応援を受けたことと引き換えに議員がその立場を利用して旧統一教会を優遇した時です。そのような事実は報告されていません。逆に、萩生田議員と生稲議員の選挙活動を非難した立憲民主党の蓮舫議員は、憲法で保障されている信教の自由と集会の自由を明確に侵害しています。

 

カルト

ここで、国家が信教の自由を保障するということは、宗教がもつ形而上学的な考えを信じることを国家が保証することを意味します。例えば、教会が反証不可能な神や仏の存在を信じることを国家は保証しなければなりません。

また、国家が信教の自由を保障するということは、宗教がもつ道徳的な考えを信じることを国家が保証することを意味します。例えば、教会が資本主義国家がもつ資本主義的価値観よりも教会がもつ宗教的価値観を優先する場合でも、国家はその考えをもつことを保証しなければなりません。

これが何を意味するかと言えば、信者が自由意志を発揮する限りにおいて、教会に多額の寄付を行うことも、無償で労働することも、信者の自由ということです。

実はこの信教の自由の存在こそが、反証不可能な教義を隠れ蓑にした反社会的な集団をさす【カルト cult】の霊感を根拠とする経済活動に法的な正当性を与えているのです。先述したように、私たちは経験による認識が可能な存在(事物)を対象にする形而下学を根拠に事実を検証・評価することが可能ですが、経験による認識が不可能な存在(神・仏)を対象とする形而上学を根拠に事実を検証・評価することは不可能です。

心理学者のマーガレット・シンガー Margaret T. Singerの著書『Cults in Our Midst』を参照すれば、カルトとは、教会のリーダーの利益のために偽って信者を勧誘・操作し、その基本的人権を阻害し、ときに社会にも損害を与える団体と解釈することができます。ここでいう「操作」とは、総合的な【心理学的操作 psychological manipulation】のことであり、様々な情報操作・印象操作・認知操作を含みます。

ちなみに、「マインド・コントロール mind control」という言葉は、カルト問題に取り組む弁護士など、科学の専門家ではない実務者が使用しているものであり、必ずしも科学的に認められているテクニカル・タームではありません。

さて、ここで問題となるのは、信者が教会に操作されているか否かを科学的に判定することが簡単ではなく、客観的な証拠を示して教会をカルトと認定あるいは不認定することがむしろ困難であることです。

日本のマスメディアや日本社会は旧統一教会はカルトで、それ以外の宗教はカルトではないと疑いもなく考えていますが、区分はそんなに簡単ではありません。どんな宗教団体においても高額の献金をしている信者は少なからず存在するのです。

旧統一教会は、教会の名を偽って信者を勧誘していたことが知られており、また山上容疑者の母親のような多額の寄付でトラブルが起きていることが知られています。ただし、信者が多額の寄付で精神が救われたと主張する限り、それを否定することは形而上学を前提とする限り、不可能です。カルトか否かの争点は、信者が操作を受けて、その自由意志を発揮することなく、教会のリーダーが利する行為を行っているか否かに尽きるのです。

その意味で、安倍政権時に成立した「改正消費者契約法」は画期的な法律でした。

不安をあおる告知 (第4条第3項第3号)
事業者が、消費者に対し、霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見として、そのままでは消費者に重大な不利益を与える事態が生じる旨を示して消費者の不安をあおり、合理的な判断ができない心情(困惑)に陥った消費者に当該消費者契約を締結させた場合には、当該消費者は当該契約を取り消すことができる。

つまりこの法律は「反証不可能な形而上で発生した契約を反証可能な形而下で取り消すことができる」という宗教哲学に適った論理的な法律なのです。

統一教会の犯罪の成否については、捜査機関が法の定めるところに従って収集した証拠に基づいて個別的に判断する事項です。日本は法治国家であるので、トラブルが存在するのであれば、【デュー・プロセス Due process】に従って解決するしかありません。

以上のような原則を理解していれば、日本のマスメディアが行っている自民党議員に対する魔女狩りは、少なくとも、法治主義の精神・信教の自由・参政権を阻害していることがわかります。

そして何よりも大きな問題は、マスメディアに完全に「マインド・コントロール」されている日本社会の脆弱性です。慰安婦・辺野古移転・民主党政権・原発停止・再エネ・安保法制・豊洲移転・モリカケ・処理水・コロナ・東京五輪などなど、何度騙されても性懲りもなく騙され続ける日本社会は、日本マスメディア教会というカルトの狂信的な信者であり、脱会は絶望的です。


編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2022年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。