インパールはインド北東部国境付近にある人口26万人(現在)の小都市です。この地を目指し日本陸軍(南方軍ビルマ方面軍第十五軍)は、1944年「太平洋戦争で最も無謀」と言われたインパール作戦」を始めました。
インパール作戦はなぜ実行されたのか?
この問いに対する説明は「現地の軍司令官が“愚将”だったから」あるいは「陸軍(という組織)が軍事合理性より人間関係を優先したため」というあたりが一般的でしょう。しかしこの単純な原因帰属は本当に妥当なのでしょうか。
作戦認可の実相に最接近した研究の書
このテーマに、今までになかった視野の広さと思考の深さで考察された研究が『牟田口廉也とインパール作戦』(光文社新書、関口高史著)として出版されました。
著者の関口氏は、陸上自衛隊第一空挺団や米国特殊部隊という超エリート部隊で鍛錬を積んだのち、防衛大学校で准教授として戦略指導をされておりました。文字通り文武両道を極めた「現代の武人」でしょう。
上空から戦場を俯瞰する空挺団員の広い視野と、地に伏せ水中から接近する特殊部隊員の任務達成能力など、私達一般人では到底持ちえない知見と素養です。それらを基盤とした戦略論には独特の説得力があります。
「インパール作戦」認可に至る従来説
まず、研究の世界はわかりませんが私達のような一般人に認識されている「インパール作戦が認可された理由」について整理します。
原因帰属事例1:『失敗の本質』
インパールと聞けば『失敗の本質』の分析を思い出す方も多いことでしょう。その中では、インパール作戦については特に「許可されて行く経緯」に焦点を絞って分析されており、次のように結論します。
では、なぜこのような杜撰な作戦計画がそのまま上級司令部の承認を得、実行に移されたのか。これには、特異な使命感に燃え、部下の異論を抑えつけ、上級司令部の幕僚の意見には従わないとする牟田口の個人的性格、またそのような彼の行動を許容した河辺のリーダーシップ・スタイルなどが関連していよう。しかし、それ以上に重要なのは、鵯越作戦計画が上級司令部の同意と許可を得ていくプロセスに示された、「人情」という名の人間関係重視、組織内融和の優先であろう。
(『失敗の本質』より引用、太字は引用者)
要するに「“軍司令官の個人的性格”または“人情”あるいは“人間関係”が優先され、この巨大で非合理的なプロジェクトが進められた」とする組織論です。
原因帰属事例2:『NHKスペシャル』
次は世論形成に強い影響力を持つテレビです。
NHKは「白骨街道」という表現や無残な日本兵の遺体など、とりわけ情緒に訴えるストーリーと映像でインパール作戦の特集を組んでおります。「許可されて行く経緯」に関しては、次のように結論します。
上層部の人間関係が優先された意思決定
インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。(略)それでもなぜ、インパール作戦は実行されたのか?大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。
「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)
冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。
(上記の文章は『NHKスペシャル 戦慄の記録 インパール』(2017年放送)のサイトより引用)
この番組の上記結論にも、冷静な分析より優先された何かを感じます。ただしこれは私の主観的な感想です。
従来説の物足りない部分
まず、『失敗の本質』ですが、細かいところでは「部下の異論を抑えつけ」「上級司令部の幕僚の意見には従わない個人的性格」などが気になります。どういうことかというと、これらの分析とその記述には、次の観点が不足しているのです。
- 「日本陸軍の司令官の意思決定(決心)や責任の所在」
- 「司令官と参謀長の役割分担」
- 「参謀は参謀長のスタッフに過ぎない」
簡単にいうと幕僚のうち参謀は参謀長の補佐スタッフであり「意見具申」先は自分が仕える参謀長です。上級司令部の幕僚は上級司令部の参謀長に意見具申するものであり、その参謀長は当該司令官に献策し、司令官に認識の誤りがあれば説得するのが役割です。ですから軍司令官が「部下の(自分の考えと異なる)意見具申を却下すること」や、「上級司令部の幕僚の意見に従わないこと」は、責任を担う司令官の正常な意思決定と職務権限でしょう。
この日本陸軍という組織の統帥理論(役割と責任の分担、命令の意味)も知識として十分理解しておかないと、全くわからなかったことでしょう。
つまり、この司令官を任命した人事や、方面軍を途中から設置して「屋上屋を架す」組織としたことなどに分析の焦点を合わせない限り、組織論としては真実に到達できないでしょう。
次にNHKです。
「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。」という部分ですが、この発言の真意には少なくとも3つの可能性があります。
- 文字通り「杉山元帥が先輩である寺内元帥に忖度した」
- 杉山参謀総長の政治的発言。
つまり、国内政治力学上実施する必要がある作戦だが成功可能性は低い。そのため失敗した際には「大本営(参謀本部)が立案したのではない。現地軍がやらせてくれというから認可しただけ」という言い訳ができるよう予防線を張りつつ作戦を認可した。 - 作戦部長「眞田穰一郎少将」の保身のためのアリバイ工作。
つまり発言記録の出典は、「眞田穰一郎少将手記」であり、眞田少将は作戦認可当時第一部長で作戦立案の責任者です。作戦には反対しておりましたが、後ろ盾でもある東條英機首相兼陸相の政治的立場や意向は熟知していると見るのが妥当であり、失敗がほぼ確実な作戦であっても純軍事理論から反対を唱え続けるのは自分の立場を危うくします。そこで「自らは反対していたが、上司の人情論に負けた」と釈明すれば守れる何かがあったでしょう。
これらの強い政治的背景があるにもかかわらず、その検討は全くなされずに人情論と結論付けられても、納得できませんでした。
従来説では足りない背景を浮き彫りにした研究の書
『牟田口廉也とインパール作戦』は、軍事組織と文化に対する素養のない私でも理解できる丁寧な説明で、上記のような疑問点を一つ一つ解き明かしてくれます。
出版社サイトで同書は、次のように紹介されています。
(略)作戦はどのような経緯を経て実行され、なぜ失敗に至ったのか?数々の思惑がぶつかり合ったインパール作戦は、「牟田口=悪」という単純な図式には回収できない。牟田口の生涯を追い彼の思想や立場を明らかにしつつ、作戦が大本営に認可されるまでの様々な人物・組織による意思決定の過程を分析する。
(光文社新書サイトより引用)
「数々の思惑」、「単純な図式には回収できない」、「さまざまな人物・組織による意思決定の過程」とありますが本当に複雑です。同書を読んで、それらがよくわかりました。
簡単に言うと、インパールというインドの小都市は、ビルマ(現ミャンマー)北西部とインド北東部の国境付近に位置します。そのため大東亜戦争当時、“大東亜共栄圏”の西端ビルマの守備を固め、インドにまで拡大できるかどうかという政略と戦略の両面から重要な意味を持つエリアとなりました。
ここに三国軍事協定、独アフリカ軍団の活躍と敗退、イタリアの降伏、日本の戦争終結論理や大東亜共栄圏と自由インド仮政府(チャンドラ・ボース)などの国際情勢と国内政治の動向が複雑に絡み合います。これまで私達一般人は対米戦争の強烈な光に幻惑され、対英戦争の局面を軽視していた傾向がありました。
この『牟田口廉也とインパール作戦』を読むことで、大東亜戦争を理解する上で不足していた知見を十分に補充することができるでしょう。
読後“自己検閲”という呪縛が可視化された
ところで、戦慄の記録 インパール – NHKスペシャル – NHKの初回放送は2017年であり、当時も私は視聴しておりました。今年8月にもこの番組を(5年ぶりに)視聴し、加えて今年8月に初めて放送された「ビルマ 絶望の戦場」 – NHKスペシャル – NHKも視聴しました。今年はじめて気が付いたことがあります。
それは、今なお日本に残る、“自己検閲”という呪縛です。今年の放送は『牟田口廉也とインパール作戦』読後だったので気が付くことができました。
検閲は、戦前戦中は日本によって、戦後直後からはGHQによって実施されていました。特に「大東亜戦争」という呼称は、日本の政治的プロパガンダを含む用語として連合国軍最高司令官総司令部によって次のように排除されました。
(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル
(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)より引用、太字は引用者)
それが未だに日本には残っているのです。例えば2006年の衆議院では、次のような質疑が記録されております。
大東亜戦争の定義について(質問者:鈴木宗男議員)
(質問)五 政府は公文書に大東亜戦争という表記を用いることが適切と考えるか。
(答弁書) 公文書においていかなる用語を使用するかは文脈などにもよるものであり、お尋ねについて一概にお答えすることは困難である。
上記の番組では、ビルマの独立には触れているものの、チャンドラ・ボースやインド独立に触れていません。加えて、三国軍事協定・独アフリカ軍団の敗退・イタリアの降伏・大東亜会議(とインド)など、背景となった重要事項にも触れていません。
まるで、視聴者である日本人から、「大東亜共栄圏という日本が戦争した大義」の存在を排除する残存意思が日本を覆っているかのように感じました。ただし、それが意図的なものが無意識の行為なのかは判別できません。
このことはしかし、「生存圏の確保をめぐり帝国主義的価値観で戦っていた当時の国際情勢とそのなかで日本はどう振舞ったのか」に関する知見を偏ったものにしてしまう可能性を感じます。
今後は、インパール作戦に限らず、島嶼戦や大陸における戦闘など他の作戦の意義や、陸軍全体、そして当時の状況を虚心坦懐に見直すことが大切になるでしょう。
最後に理解の助けとなる、作戦に参加した参謀の言葉を紹介します。(1956年8月「別冊知性」に掲載された『ビルマ・インパール作戦 インド進攻の夢破る』の再掲載文書より引用、太字は引用者)
そもそも今次大戦の開戦決意に当たって、日本の戦争指導当局は、戦争の終末を重慶屈服と英国の脱落に期待していた。(藤原岩市元第十五軍参謀)
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