鶴松の死は秀吉大陸遠征の原因でなかった

秀吉が大陸出兵を行ったことについては、国内で武将たちに与えられなくなったので、彼らに与える領地を見出すためだとか、鶴松の死でヤケクソになってだとか、低級な分析をする人がいる。

しかし、小田原の役のあとでも東日本の反抗的な大名を取り潰しでもすれば、かなり領地は生み出せる。当時は、大名が死んだら自動的に相続にはならないので、死んだ大名の領地の全部とか一部を取り上げてもかなりのものになるから理由にならない。

豊臣鶴松(妙心寺蔵)

もともと、秀吉は諸大名が豊臣体制に組み込まれたら、早く海外に進出したがっていたのであって、北条でも反抗しなければ温存するつもりだった。鶴松の死で、かわりに秀次を関白に就けたりしたのは、大陸遠征が遅れた理由であって反対ではない。

それでは、なぜ大陸へ出兵したのかの解説を「令和太閤記 寧々の戦国日記」から。

秀吉が朝鮮や明への出兵を考え始めたのは、いつからというものでもありません。信長さまも、そのつもりでおられたので、それを引き継いだ秀吉にとっても当然のことでした。

ただし、具体的にどのようなイメージかは、それほどはっきりしていませんでした。いわば、会社が大きくなって、全国でのチェーン展開も一段落ついたら、今度は海外進出かというようなことで、そういう発想が自然に出てきたのは、大航海時代なら自然なことです。

令和の企業経営者でも、どの国に、どんなかたちで進出するかは、最初から決めているわけでもないと思います。100パーセント子会社による直接投資だけでなく、合弁会社であったり、提携関係だったり、貿易だけに留めるかなど、選択肢はいろいろあるわけで、相手先の出方も見ながら決めるのが普通でしょう。

日本の歴史を振り返ると、時代によって海外への関心は違います。4世紀から6世紀までは、半島に領土を持っていたのですが、中国と組んだ新羅に負けたので日本は撤退し、源平の争いでは、西日本に勢力を伸ばし、中国との貿易に熱心だった平家がはじめ強かったのですが、貿易での儲けが減るような経済変動もあって、関東武士が天下をとった。

鎌倉時代には、中国の北のモンゴル人が、高麗や中国の人々を束ねて日本を支配下に置こうと攻めてきましたが、なんとか撃退しました。

室町時代には、政府の支配下に入らない西日本の人たちが、元寇の仕返しということから出発して、朝鮮半島や中国の沿岸を荒らし回り、それに中国の人たちも加わることも多かったわけですが、日本を根拠地としていたので「倭寇」と呼ばれています。

中国や高麗の政府は、幕府が倭寇を抑えてくれたら、正式の貿易をして儲けさせてやろうということを幕府に持ちかけ、勘合貿易というのが行われました。最後のほうは、周防の大内さまが細々と将軍の名を使って、博多商人に寧波への船を出してやっておられましたが、大内義隆さまが家臣に滅ぼされて中止されました。

こういう状況のなかで、南蛮船がやって来て、鉄砲やキリスト教を伝えたり、東シナ海での日本と中国の貿易なども主導権をとったのが、秀吉が登場した時代でございました。

秀吉は強力な統一国家をつくりあげたころは、南蛮人がやって来たし、明や李氏朝鮮も衰退期に入っていたなかで、しっかりとした対応をしないと国を守れないという状況でした。

秀吉の時代は日本が突然、豊かになった時代でございます。「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て、そのうえ高麗・琉球・南蛮の綾羅錦繍、金襴、錦紗、ありとあらゆる唐土、天竺の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなえたてまつり、まことに宝の山を積むに似たり」という状況でした。

この時代、鉄砲など武器や機械の技術も大進歩いたしました。南蛮人たちがやってきたとき、明国は世界有数の技術大国でございますから、大きな差は感じなかったのですが、産業技術が遅れていた日本にとっては、何世紀分もの遅れを取り戻す大チャンスだったのです。

ですから、秀吉が南蛮人たちに協力させて大陸制覇を目指したとか、南蛮人でも日本人を切支丹にして、それを先兵に中国を制圧してキリスト教を広めようとしたのも、あながち見当外れの夢想でもなかったのでございます。

室町幕府は明国と勘合貿易をしていたのですが、大内氏と博多商人たちが幕府の名前を使っていただけですし、明もそれを知っていたのです。ところが、大内義隆が陶晴賢に殺され傀儡政権を建てたのちは、明は日本との勘合貿易を停止し、また、海禁政策を緩和して外国船の寄港をある程度は認めたのに、倭寇の根拠地だというので日本船の寄港は許しませんでしたので、日明貿易は、琉球や朝鮮を通すとか、両国の船がどこかで出会うとか、南蛮船に依存するとかに限定されていました。

天下統一が近づいた頃から、秀吉に限らず西日本の人たちが考えたのは、倭寇を取り締まる代わりに、明との貿易を正常化することです。大内氏がやっていた勘合貿易の復活、日本船の寄港を認めるなど方法はいろいろあったわけでございますが、明がそれに応じる気配はありませんでした。

このとき、明が遣唐使の時代の唐のように建前をうるさく言わず、統一国家を樹立した秀吉の政権との友好関係を大事にしたほうが、倭寇も抑えられるし、南蛮人に対しても手を組んで対処できるし、通商上の利益も得られるだろうという賢い判断をしたら、なんの問題もなかったわけですが、そうではありませんでした。

一方、中国周辺の諸民族がどこでもそうだったように、秀吉も強い政権ができたので、周辺国家などに自分たちの権威を認めるように要求いたしました。それは、朝鮮王国でも、女真族や対馬の宗氏に対して権威を認めさせようとやってきたことで、当時の東アジアで当たり前のことでございました。

秀吉は、朝鮮や琉球などの国王に、上洛を求め、ルソンやゴアなどの南蛮人にも同様に入貢を要求し、明を征服するときは協力するように言ったわけです。台湾にも同じようにしようと思って、使節を派遣いたしましたが、国王らしい者もいなかったで、そのまま帰ってまいりました。

朝鮮には、もともと窓口になっていた対馬の宗さまが、いつものように二枚舌を使って、朝鮮国王に代理の通信使を天正18年(1590年)に派遣させ、11月に聚楽第で天下統一の祝いを言上させて、とりあえずしのぎました。

秀吉は、唐入りの先導を朝鮮国王に命じましたが、このときに閣下という目下に使う称号を、国王に使ったので朝鮮側は抗議しましたが押し切りました。そして、宗氏はこれを「仮途入明」、つまり遠征軍の通過の便宜を図る要求にすり替えて交渉しました。

驚いた朝鮮側ですが、日本に来た使節のなかでも、秀吉が本気とみるか、聞き流しておけばいいかで意見が分かれました。漢城(ソウル)の宮廷でも議論がありましたが、あまり厳重な備えはしなかったようです。

そして、秀吉は天正19年(1591)の10月から、肥前の名護屋に城を築いて、渡海の基地とすることを命じました。ここは、現在では佐賀県の唐津市ですが、イカ料理がおいしい呼子とともに、東松浦半島にあります。九州本島から壱岐や対馬、さらには朝鮮半島へ最短の場所でございます。

秀吉は関白の座を秀次へ12月に譲って、3月26日に聚楽第を出陣いたしましたが、恐れ多くも帝が激励のためにお出ましになって、出陣に花を添えてくださいました。