「新しい資本主義」の差異化の試み(前編)

Eloi_Omella

1.「人間形成型発展様式」の検討

ジンメルの「差異化」

多作だったジンメルの死の前年、最後の社会学の著作のなかに、「私たちの行為を刺戟し規定するものは、大部分、他の人々との差異である」(ジンメル、1917=1979:51)という一文がある。

差異は「新しいもの、稀なもの、個性的なもの」から派生して、いずれも「価値が高いものという意味を持っている」(同上:53)。ただし、稀なものは必ずしも新しいとは限らないし、個性的ではあっても似たものも多い。

このような「差異化」の観点を活かして、ここでは刊行の奥付が2022年7月10日の山田(2022)を取り上げて、「新しい資本主義」とその「新しさ」の「個性」をめぐり、いくつかの論点を検討してみよう。

『新しい資本主義案』について

その著書では、いち早く岸田内閣の「新しい資本主義」批判が展開されている。私が岸田ビジョンを体系的に知ったのは6月7日に公表された『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画(案)』(以下、『新しい資本主義案』と略称)であったから、公表から1か月後に刊行された著書の一部としてその批判が収録されたことに驚いたものである注1)

実際にそれを読んでみると、使われた資料は岸田の公式サイト、所信表明演説、施政方針演説、文藝春秋に岸田が書いた論考と新聞記事などであり、その発表された時期は2021年10月から22年2月までの半年間になることが分かった。ただし新聞記事は6月1日分まで含まれている。

「新しい資本主義」の4つの問題

さて、それらの資料を丹念に読み込み、山田は問題意識として「『新しい資本主義』は新しいか」と問いかけ、「新しい資本主義」ビジョンの問題点を4点に集約して、その「困難性」を指摘した。

すなわちそのようなビジョンでは、(1)生産性上昇の成果が賃上げにつながらない、(2)このような「資産倍増計画」は格差拡大を煽りかねない、(3)将来への不安から、人びとは消費ではなく、貯蓄に回すので、投資にしか期待できないが、これにも懸念は尽きない、(4)デジタルイノベーション投資では「連結の経済」(異種企業間の結合による生産性上昇)が主流だが、岸田ビジョンでは楽観できない(同上:104-114)。

そして山田の結論は、「岸田ビジョンは依然として旧来的観念にとらわれていて、真の意味で『新しい』とは言えない」として、「古い政策への逆戻りである」(同上:119)という総括を行った。

ここには、判断基準として山田が丹念に紹介するボワイエの「人間形成型と呼ぶべき資本主義」モデルを借用し、それと「新しい資本主義案」との差異化を行い、「古い政策」として「岸田ビジョン」を位置づけたという思考方法が読み取れる。

ボワイエの「人間形成型」に依拠

山田は数十ページを使い、ボワイエの「人間形成型発展様式」(anthropogénétique mode de développement)を略述し、この延長線上に『新しい資本主義案』を超える新しさを想定する。その出発点で用いられたボアイエの「人間形成型モデル」は、「人間による対人サービスを通しての人間的能力の向上が主軸をなす経済社会」(同上:126)と定義された。さらに人間的能力は「潜在能力capability」の意味だとする。

ここでは「能力の向上」という方向性を確認しておこう。なぜなら、これが『新しい資本主義案』には欠落しているために、「人間形成型モデル」との「差異化」の原因になるからである。

ただし、この両者にはいくつかあいまいな点がある。それを自覚してか、山田はこれらを「萌芽的に仄見え」、「十分に確立しているわけではない」(同上:125)とあらかじめ書いている。さらに「人間形成型モデル」は「予兆」(同上:130)とも「伏流」(同上:147)ともいう。すなわち、「人間形成型発展様式」そのものが未完成の概念なのであり、紹介を読んだ私もいくつかのあいまいさが気になる。

翻訳の問題から

まず、「人間形成型発展様式」(anthropogénétique mode de developpment)についての問題として、‘mode de developpment’を「発展様式」と訳すのはいいとしても、‘anthropogénétique’は「人間形成型」でよいかという疑問が生じる。

仏和辞典によれば、‘anthropo’はギリシャ語由来の「人間」を意味するとある。一方、‘génétique’は発生、生成、発達、遺伝などの状態を表わす形容詞的な使用が普通になされる言葉である。かりに発生や生成ならばゼロからの誕生を踏まえた「前進」という方向性があり、発達ではある段階から次の段階への「動き」を予想させる。また遺伝になると、親や祖先から伝えられたものなので、そこにも一方向の「動き」が感じ取れる。

しかし、山田訳の「人間形成型」ではどの方向への動きかが分からない。「形成」では「前進」の場合もあれば、「後退」することも想定されるからである。山田の意図は「資本主義の新しさ」の追求にあるのだから、「人間後退」はありえない。その意味で、「形成」という訳では新しさへの方向の特定化が不十分だと言わざるをえない。

社会化(socialization)の発想が欲しい

一般的にいえば、人間は誕生後から社会システムに備わる社会化機能により、「社会性」が徐々に形成される。誕生当初は家族がその主要な役割を担い、義務教育段階では学校、遊び仲間、居住する地域社会、テレビを筆頭とするマスコミがそれに加わる。その後の高等教育段階でもさまざまな社会化機能により「人間形成」が進む。岸田内閣が重視する職業期の人々へのリカレント教育もまた、新しく社会化させる機能を持つ。

このように考えれば、「人間形成型」という訳では、年少時代の「社会性形成」はともかく、成人してからではその用語は使いにくい。なぜなら、職業期にある40歳男女に対しては、「社会性形成」とは言わないからである。むしろ、成人後の男女はすでに「形成された社会性」があるものだと仮定されている。成人後の男女はそれぞれに、ライフスタイル、政治的志向性、趣味娯楽の嗜好、対人関係の様式などでは独自の個性を身につけている。

そうすると、「人間形成」の「人間」はもちろん老若男女を含むから、ボアイエそして山田が狙った「新しい資本主義」の新しさをこの訳語で表現することは難しいと思われる注2)

「人間形成」ではあいまいさが残る

さらにいえば、次の段階とされる「新しい資本主義」でも老若男女が共存するのだから、かりに「人間形成」を使っても、その場合の「人間」は、「老いた男性」か「幼い女性」かによっても「形成」される内容が変わってしまう。

このようなあいまいさが残っては、この概念をそのまま「新しい資本主義」論に持ち込めないと思われる。したがって、山田が期待するように、「人間形成型」の発展様式が・・・・・・「新自由主義的な現代資本主義に代わる新しい経済社会への道標」(同上:121)にはなりえないであろう。

内容の問題から

それは定義を超えて、内容の問題に直結する。ボアイエを繰り返し引用しながら、山田は「経済にとって・・・・・・人間にとって、(中略)健康・教育・文化という人間形成的活動」(同上:120)の重要性を繰り返し強調する。しかし、社会システムにおける「健康・教育・文化」の重要性は当然であり、コロナ前でも後でも変わらない。なぜなら、50年前の1970年代でも、GNP至上主義の超克や反公害や都市問題解決の理念として「生活の質」(QOL)を表現する領域と指標に、これらは使用されたからである注3)

不思議なことは、ともかくも経済学を専攻するボアイエがそして忠実に引用する山田も、「物的財の生産」と「人間による対人サービス」を概念的に切り離した点である。

その事例は、「商品による商品の生産」、「モノによるモノの生産」など各種の表現として本文中に散見される。要するに、「物的財の生産」と「人間による対人サービス」を象徴した「ヒトによるヒトの生産」とが区別されるという判断が、そこに認められる(同上:126)。

製造業は人間形成分野にも直結する

ボアイエもそれを紹介する山田も、経済部門を農鉱業、製造業、人間形成、金融、その他のサービス業に大別する(同上:129)。

しかし、経験則からしても、たとえば「平均余命」が伸びた要因の一つには、確実に医療機器水準の向上が指摘できる。他者のデータ引用を通して、「医療の成果(産出)としては、何といっても平均余命がよき指標」(同上:131)という総括は正しいが、「医療の成果(産出)」には、建設業による最新の病院建設、製造業が受け持った各種の医療機器の導入、製薬業による有効な治療薬の開発・生産、病院内の空調設備の充実、救急車を製造した自動車メーカーなども応分の協力をしている。決して、医師や看護師その他の病院スタッフだけの「対人サービス」だけで「平均余命」が上がったのではない。

すなわち、関連する多様な製造業の総合的な支え(生産力水準の向上)があってこそ、対人サービス業である医師や看護師などの力が重なった成果として、「平均余命」の伸びが得られたのである。「ヒトによるヒトの生産」に、各種の機材や装置や施設という製造業からの支援は不可欠である。

教育の現場も同じ

教育の現場でも同じことがいえる。団塊世代の私たちの義務教育時代では、教室にテレビはおろか蛍光灯すらなく、暖房はもとより夏の扇風機さえなかった。音楽室や理科室はあったが、実際にはすべてが教室に「転用」される時代であった。それから半世紀後の教室では蛍光灯やテレビはもちろん、英会話教材を筆頭にさまざまな教材が活用され、たくさんのデジタル機器も使った教育サービスが行われている注4)

とりわけ2020年以降では、コロナ禍が引き起こしたオンライン授業では製造業が提供したハード面のパソコンやiPadに加えて、各種のソフト開発会社が作成したソフトや通信技術が組み合わさって、取りあえずのオンライン教育が3年間も継続されてきたという事実がある。義務教育の教員はその仕組みや方法を学ぶために新たな時間が必要になり、業務多忙に拍車がかかる。ここからも製造業と人間形成分野を機械的に分離することは誤りと言えるであろう。

文化の領域でも

同じくそれは文化の面でも該当する。たとえば音楽についていえば、高度成長期以降では手軽な価格で使い方も簡便な各種の音楽機器が製造・販売されてきた。家電量販店にはそのような音楽機器コーナーが広く作られている。

団塊世代の年少時期にはピアノかオルガンしかなかったが、次の世代ではエレクトーンをはじめ多数の電子楽器の登場により、老若男女の音楽嗜好は変容しつつ、今日では一定の前進を見せた。電子楽器を使って自己の作品を作曲して演奏する若者や中高年も増えている。これは文化の裾野の広がりという方向性を示すものである。したがってこれは、これは音楽分野の「形成」ではなく「発展」と言った方が現状にふさわしいであろう。

カラオケ愛好者はコロナ禍で一時的に少なくはなったが、テレビの音楽番組でプロ歌手の伴奏に使う最新設備の音響装置を備えたカラオケ店には、「昼オケ」を楽しむ年金生活者も少なくない。ここにも音楽機器製造業と「対人サービス」の融合が顕著に認められる。

同時に製造業の観点からいえば、レコード制作からCDやDVD製造へと拡散した音楽メディアによって、音楽とともに映像も楽しめる文化が育ったことも特筆できる。それは団塊世代以後の次世代や次々世代が得意としたテレビゲームに直結した注5)

以上に概略したように、ボワイエそして山田のように、「ウェルビーングの経済」にとって「製造業」と「対人サービス」を切り離すことは合理的ではなく、実態離れになる。それはあたかも「コンクリート」から「ヒト」へを標榜したかつての政党のキャッチコピーと同質である。医療でも文化でも、建物や設備とともにそこで働く「ヒト」がいてこそ、本来の社会的機能が発揮できる。その意味で、山田の記述ではこの観点がまったく欠落していて、社会学との「差異化」は歴然としている。

2. ウェルビーングの応用研究

ウェルビーングとは何か

さて、元来‘well’は相対性を免れない用語であり、その対極には‘badly’がある。すなわち、‘well’と‘badly’は一元の軸で繋がり合う。たとえば自分の健康がどの位置にあるかは医師の判断はもちろんだが、最終的には本人の主観で決定される。日本語でいえば「非常にいい、ややいい、どちらともいえない、やや悪い、非常に悪い」という調査票の定番項目にそれは象徴される。

山田は資本主義社会を念頭にウェルビーングを使ったが、その場合でも「ウェル」(いい)と判断できる素材を吟味したうえで、最終的には本人が特定の社会状態を「ややウェルビーング」や「ウェルビーングには程遠い」と判断するのであり、そのため相対的な主観性を内在する注6)

しかし、ビーイングは「存在」や「生命」であり、しかもそれは情動的、身体的、心理的な「良さ」を主な内容として、最終的にはよい健康状態や幸福感などに収斂する。

そのため山田のように、well-beingやbien-êtreを「ゆたかな生」と訳すことはありえる(山田、前掲書:141)。

ウェルビーングの指標はこれでいいか

だから訳語は「ゆたかな生」でもいいが、それを具体化するために山田が使った指標については疑問が残る。ここでも社会学との「差異化」が鮮明である。

山田はまず国連のHDI(Human Development Index)を借用する。そしてこれは「きわめて包括的であると同時に、ある単一の数字で示されるので便利かつ有効」(同上:137)だとして、実際に使ってみた。その結果、「GDP的要因を含みつつも、健康と教育という側面に光を当てている点で、人間形成型モデルへの接近度を測る指数としてはきわめて有効である」(同上:138)と一旦は高く評価した。

HDIでは不十分だった

しかし何しろ、実際のHDIのデータは、健康としては①平均余命、教育としては②成人識字率、③一人当たりGDPなので、途上国では使えるが、結局は「先進資本主義諸国にこれを適用した場合、各国間で指数に大きな違いが生じなかったり、一国の経年的変化も微々たるものに終わったりしうる」(同上:141)と逆の評価を下すことになった。

それはそうだろう。日本を含めた先進資本主義諸国においてこの数十年の「成人識字率」はおおむね95%を超えているので、諸国間の差異は検出できず、経年的変化もこの50年間は乏しいのだから。平均余命もロシアの男性を除けば、先進資本主義諸国間で見ても男性が80歳前後、女性が86歳前後に僅差で並んでいる。

それ以上に、21世紀の資本主義社会において、健康を「平均余命」、教育を「識字率」で代替できるのだろうかという根本的な疑問がありえる注7)

BLIを重視

そこでHDIに代わる指標として「人間形成型発展に向かって先頭をきる諸国の分析のためには、健康や教育を測る指標」であるOECDのBLI(Better Life Index)をもちだす。

山田はこれを、「包括的な目配りがなされ、(中略)資源投入よりは成果に注目して・・・・・・客観的側面・・・・・・のみならず、主観的な側面・・・・・・にも配慮して、(中略)成果の平均値だけでなく、成果の分布・・・・・・を問うて、機会や結果の平等を視野に入れている」(同上:143)と評価した。

3つのカテゴリー

実際のBLIは3つのカテゴリーで構成される(図1)。それぞれには個別分野とその指標があり、

(1)生活の質

①健康状態、②ワーク・ライフ・バランス、③教育と技能、④社会とのつながり、⑤市民参加とガバナンス、⑥環境の質、⑦生活の安全、⑧主観的幸福

(2)物質的な生活条件

①所得と資産、②仕事と報酬、③住居

(3)幸福の経時的な持続可能性

①自然資本、②経済資本、③人的資本、④社会関係資本

という構成からなっている。

図1 Better Life Indexの概念的枠組み
出典:OECD編、2013=2015:28.

「リグレッタブルズ」の意義

私の手元にはOECD(2011)からの翻訳である西村訳『OECD幸福度白書2』(2015)があり、図1はそれからの引用である。そこには「GDPとリグレッタブルズ」も鮮明に掲載されている。しかし出典は全く同じだが、山田の引用では、図1の「GDPとリグレッタブルズ」が削除されている(山田、2022:142)。本文中の記載にも、巻末の参考文献でも、どれが出典かが特定されていない注8)

GDPは「所得と資産」「仕事と報酬」にも直結するので、ここではOECD(2011)原本なり翻訳を使ったのならば、「GDPとリグレッタブルズ」も入った図のほうがよかったのではないか。

とりわけ、40年前からの日本の社会指標では取り上げられたこなかった「リグレッタブルズ」は重要であった。なぜならこれは「GDPに含まれるが、実際には人々の幸福を減少させることに相当する活動(渋滞に起因する輸送コストの増大や長距離通勤など)、あるいは生産に伴う社会的負担や環境的負担を是正しようとして行われる活動(汚染削減のための出費など)。経済活動の増大に貢献するが、人々の幸福の増大には役に立たないため、『regrettables(残念なもの)』と呼ばれる」(OECD編、前掲書:253)からである。

ウェルビーングにも「リグレッタブルズ」が含まれる

社会指標運動の直前まで日本の都市問題として扱われていた公害では、大気汚染や水質汚濁などを緩和する装置・機材や薬剤の売り上げもまたGNPやGDPを上げるために、「regrettables(残念なもの)」とは言われなかったものの、経済指標としては不自然であるという意見も出ていたからである。

同じように、通勤通学という日常移動はウェルビーングや「生活の質」を規定する要因の一つだが、時間的に長すぎれば負の効果が大きくなり、それらの評価下げてしまう。害虫が発生してその駆除薬が増産されればDDPは上がるが、やはりウェルビーングや「生活の質」は下がってしまう。その意味でも図1には「regrettables(残念なもの)」の位置づけは必要であろう。

一般的いえば、「生活の質」社会指標では、①健康状態、②ワーク・ライフ・バランス、③教育と技能、④社会とのつながり、⑤市民参加とガバナンス、⑥環境の質、⑦生活の安全のほぼすべての分野で、「regrettables(残念なもの)」が認められるだけに、山田がこれを削除したことは議論の幅を狭くしたという意味で、残念であった。

全体として山田は、図1を「多角的なものを多角的なままに観察しようというのがBLIの本来の趣旨だ」(同上:143)として、最終的には「人間形成型発展を推量するうえで有力な指標となる」(同上:144)と判断した。

果たしてそうだろうか。

(後編に続く)

注1)この『新しい資本主義案』への私なりの疑問と論点は、当時アゴラ言論プラットフォームで連載中の「政治家の基礎力⑩新しい資本主義」(6月25日)と「政治家の基礎力⑪資本主義のバージョンアップ」(7月2日)で簡単にのべている。なお同じくアゴラで、濱田康行が「新しい資本主義批判」(7月7日)を行っている。

注2)「人間形成」を使いながら社会学にいう「社会化機能」への着眼が、ボアイエにもそれを紹介した山田にも皆無な点は残念である。

注3)すぐ後に解説するように、1970年代は世界的な社会指標運動(Social Indicators Movement)とよばれる『社会報告』(Social Report)づくりがブームとなったからである(Land & Spilerman,1975;三重野、1984)。また、日本の社会学雑誌でも「社会指標論」が特集されたことがある。そこでの執筆者は、三重野卓、安藤文四郎、山口弘光、金子勇そして小室直樹であった(現代社会学会議編、1978)。

注4)公立学校でもこのような教育施設面での充足はすでに得られたが、肝心の対人サービスを受け持つ教師が足りず、非常事態に陥っている現状がある(『週刊東洋経済』2022年7月23日号特集)。なにしろ全国で小中学校の教員が約2000人も不足している。これでは製造業による機材や教材の充足が得られても、「教師と児童、生徒」間の「対人サービス」が不足し、「人間形成」ないしは「人間発達」にも支障をきたしていることになる。

注5)もちろんここでテレビゲームを評価しているのではない。むしろ私はテレビゲームの滲透、ウォークマンの普及、「ゆとりある教育」の失敗が、現代日本人の非社会性=自己中心性を促進したという仮説を持っている。

注6)主観指標なので、たとえば対象者500人がもつウェルビーングの判定基準はそれぞれ異なるが、最終的にはその判定の合成によって対象者全体としてのウェルビーングの水準が決められることになる。

注7)なぜなら、50年前から世界的に隆盛をみた「社会指標運動」では、「健康」でも「教育」でもかなり細かな指標が使われていたからである。

注8)山田の参考文献表記では、OECD(2011,2013,2015,2020)How’s Life?:Measuring Well-being, Nos.1,2,3 and 5,OECD Publishing.西村美由起訳『OECD幸福度白書-より良い暮らし指標,生活向上と社会進歩の国際比較』明石書店2012,2015,2016,2021年.となっていて、OECD(2011)の原本かもしくは何年の翻訳から引用したのかは分からない。ちなみに私の使った翻訳の原本は2013年版で、翻訳は2015年版であったが、図1の注にはOECD(2011)と明記してあった。

【参照文献】

  • 現代社会学会議編,1978,「特集 社会指標」『現代社会学10』Vol.5,No.2 講談社:2-110.
  • 濱田康行,2022,「新しい資本主義批判」アゴラ言論プラットフォーム(7月7日).
  • 金子勇,2022,「政治家の基礎力⑩ 新しい資本主義」アゴラ言論プラットフォーム(6月25日).
  • 金子勇,2022,「政治家の基礎力⑪ 資本主義のバージョンアップ」アゴラ言論プラットフォーム(7月2日).
  • Land,K.C. & Spilerman,S.(eds),1975,Social Indicator Models, Russell Sage Foundation.
  • 三重野卓,1984,『福祉と社会計画の理論』白桃書房.
  • OECD,2013,How’s Life? 2013 Measuring Well-Being, OECD Publishing. (=2015 西村美由起訳『OECD幸福度白書2』明石書店).
  • 資本主義実現会議編,2022,『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画~人・技術・スタートアップへの投資の実現』(案、同会議)
  • 週刊東洋経済編集部編,2022, 「特集 学校が崩れる」『週刊東洋経済』第7064号(7月23日号):38-69.
  • Simmel,G,1917,Grundfragen der Soziologie : Individuum und Gesellschaft, Sammlung Göschen. (=1979 清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波書店).
  • 山田鋭夫,2022,『ウェルビーングの経済』藤原書店.