大阪城物語:現在の天守は豊臣・徳川のええとこ取り

安土桃山時代という言葉について、大阪の人は安土・大坂時代と呼ぶべきだという。これはなかなか難しい問題だ。太閤秀吉の統治の中心が京都・伏見・大坂のどれだったのかは、難しい問題だ。

そのあたりは、「令和太閤記 寧々の戦国日記」で時系列で追っているので見てそれぞれ判断して欲しいが、一言で言えば、豊臣家の居城は大坂、天下統治の中心は京都ないし伏見ということなのだろう。現代でいえば、自民党本部と総理官邸みたいなもんだ。

今回は、大阪城の天守閣についてのお話し。

太平洋戦争後の城下町では、天守閣の復元がブームになったが、明治以降、はじめて天守閣らしきものを復活させたのは岐阜城で、明治43年の博覧会のアトラクションとしてだった(この建物は戦災で焼失しており現在の岐阜城天守閣は戦後の復興)。

だが、本格的なものとしては、昭和天皇即位の御大典を記念して大阪城天守閣が市民の寄付で建設されたのが最初だ。徳川時代の石垣の上に、黒田家蔵の大坂夏の陣屏風に描かれた豊臣時代の意匠というのを基本に、壁は豊臣風の下見板張りでなく白壁づくりというごちゃまぜだが、桃山風の華麗さと江戸風の清冽さの同居は、ええとこ取りで近代日本人の美意識にぴったり合い、各地の天守閣復元に規範を与えた。

大阪城復興天守閣
出典:Wikipedia

また、鉄筋コンクリート、エレベーター付きで、最上階には高欄をめぐらした展望台、それ以外の階は博物館というのも各地で模倣されたからそのインパクトの強さが分かる。

現在の大阪城(明治時代に大坂から改名)は、仁徳天皇の難波高津宮や孝徳天皇、聖武天皇の難波京が営まれてきた場所だ。比較的、水運の便がよかった京都に都が置かれてから衰えたが、1496年になって蓮如が御坊をここに置き、1532年に山科から証如上人が本願寺を移した。この石山御坊が黒田官兵衛の指揮で豊臣の大坂城となった。

だが、大坂夏の陣のあと、大坂城は松平(奥平)信明に与えられ、小田原のような一城下町になりかねなかった。伏見と堺で役割を分担すれば大阪は不要ともいえたのだ。だが、徳川秀忠は、大坂城を再建する一方で伏見城を廃城にして、西国の抑えとして大坂城代を置き、何人かの小大名をチームで常駐させた。

幕末になると、徳川将軍は、江戸から軍艦で大坂に入り、そこから京都へ行き来した。とくに、第二次征長で将軍家茂は大坂城を司令部として居城しここで陣没した。そして、王政復古で将軍でなくなった慶喜は、二条城を退去してここに移り、慎重に再起のときを待ったが、会津など過激派の暴走を抑えられず、鳥羽伏見の戦いで敗れて兵を残して江戸に逃げ帰った。まさに、豊臣の呪いといってもよい徳川の天下の結末の舞台人会ったのである。天守は1665年に焼失していたが、このとき三層の櫓が建ち並ぶ本丸が焼失したが、二の丸の櫓や門は無事だった。

維新後は、大久保利通が浪速遷都を主導し、明治天皇が行幸して大阪にあったこともあるが、公家たちの反対で沙汰やみとなった。城跡は大村益次郎により大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)となり、西南戦争勝利に貢献した。のちに、徳川慶喜が大坂城を視察したが、感慨にふける様子はなかったが、造兵廠で製造していた飯盒に興味を示し、銀の飯盒を特注し、自炊をするようになったという。

大阪城天守閣の変遷
出典:「江戸全170城 最期の運命

昭和3年には昭和天皇の即位記念に市民の寄付で鉄筋コンクリートで天守閣が再建された。戦災で伏見櫓など一部の遺構が失われたが、大手門などは健在であり、全国一の高さを誇る二の丸石垣や、城門の巨石もみどころだ。豊臣時代の城は完全に埋められており、天守台は現天守の東側にある浄水場の施設の下に眠ると見られるが、土木工事に伴う周辺の発掘調査で豊臣時代の遺構がしばしば確認されている。

※後半は拙著「江戸全170城 最期の運命」より。