寧々は関ケ原で東軍か西軍か?~秀吉の死から関ケ原まで

豊臣秀吉が死んでから関ケ原の戦い、そして、大坂夏の陣、さらには、その9年後の1624年に死去するまで、北政所寧々はどうしていたか、いろいろ理解しにくいところがあります。

とくに、関ケ原の戦いでは東軍に与して西軍の勝利を願った淀殿と対立したなどといわれますが、それは微妙なところです。

そこで、「令和太閤記 寧々の戦国日記」でだいたいどう扱ったか、今回は、秀吉の死から関ケ原までを紹介してみたいと思います。

秀吉は茶々や秀頼に大坂城に移るようにと遺言していたのですが、茶々は伏見城を去るのを嫌だったようです。茶々は引越しが秀頼の健康にもよくないと思っていたらしく好きでなかったのです。

ただ、利家は遺言だと譲らず、翌年の正月早々に実行されます。堅固な大坂城が安全だというのが、秀吉の考えでした。

一方、私は秀吉の遺言では、伏見城本丸に住んで家康が政務を指揮するうえでの相談役になるようにとのことでした。しかし、秀吉を失って気弱になっているところでしたし、利家夫人のまつが側にいて欲しいと思ったのかもそれません。

女一人で家康と天下のまつりごとをみるというのは、少し荷が重すぎると思ったのか、とりあえずは大坂城の西の丸に住むことにしました。

しかし、本丸は秀頼と淀殿が使うというので、西の丸、かつて京極竜子が使っていた屋敷にいたのです(現在では迎賓館のようになっており、G20のときは、ここで天守閣を背景に記念撮影が行われた)。

家康は、大坂で政務を見るのに便利だと云って、三成が佐和山に移って空いていた屋敷や、その兄の石田正澄の屋敷を使っていたのですが、手狭でした。そうなると、秀吉の遺言では私が伏見に移ることになっていたはず、という声も聞こえてきました。そこで、寧々が家康のためにこれを明け渡した形になった。

このころ、豊国神社ができて京都での行事が増えたのも理由だった。公家衆や僧侶たちのような旧知の人もいた。そこで、秀吉が現在の仙洞御所のところに、京屋敷としてつくっていた「京都新城」に引っ越すことにした。

関ケ原の戦いで、東軍寄りだったというのは、ちょっとありえません。寧々の周りにいる者には西軍関係者が多かった。右腕の孝蔵主は、三成の縁者でしたし、西軍についた宇喜多秀家の妻は、前田利家の子で秀吉と寧々の養女でした。

兄の木下家定や子どもたちのほとんどは西軍寄りの立場でした。家定は三成が挙兵したときには私の護衛と称し京の三本木におりましたし、家康から言われて伏見城の守備をしていた甥の勝俊も、弟の小早川秀秋が攻撃側の大将と聞いて、退去して加わっています。次男の利房は西軍に属し、加賀大聖寺城攻撃に参加しました。ただし、三男の延俊は姫路城の城番をしていましたが、細川藤孝の娘婿だったことから東軍につきました。

むしろ、茶々が煮え切らなかったのです。家康のなさりようには、茶々としても憤懣やるかたなかったのですが、利家が亡くなり、利長や三成が失脚して、家康の言いなりにならざるを得なかったし、江の舅である信頼感もありました。

ですから、利長が窮地に陥られたときにも、助けるための積極的な行動は取らなかったのですし、会津攻めでは家康に軍資金まで出したのです。しかし、三成が挙兵し、毛利輝元や宇喜多秀家も味方され、西軍が上げた家康の罪状はまことにもっともなものでしたから反対できません。乳母である大蔵卿の息子の大野治長は、家康を暗殺未遂の疑いを掛けられ、下野に流され、家康に利用されて東軍に参加していました。

また、茶々の周りには信雄など織田家の者たちがいて、あまり片方に深入りはしないほうが良いと助言しましたし、それを受けて、ややおっかなびっくりでした。とくに三成にとって心外だったのは、豊臣家として軍資金を出さなかったことです。

総大将の輝元にも大坂城から出ないで欲しいとかいっているうちに敗戦となり、三成たちが勝手にやったことと、言わざるをえなくなりました。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館

小早川秀秋は最初、西軍について、家康の留守居だった鳥井元忠が籠もる伏見城を攻撃しました。戦場で裏切ったのは、家康が家老の稲葉正成(春日局の夫)などを籠絡した結果で、私とは関係ありません。三成からは、秀頼が成長するまで関白にすると言われたものの、家老に迫られて、9月15日の戦いでは土壇場で裏切ったのです。

戦国の世で裏切りは珍しくありませんが、戦場で扇の要というべき場所を自分で占めておいて、だまし討ちのような形で大谷吉継の陣に襲いかかったなど、破廉恥そのものです。吉継の母親である東殿は、寧々の侍女でしたから、本当に申し訳ないことでした。

そんなことで、東軍勝利が伝わると、寧々は裸足で御所に逃げ込んだのである。

木下家では、小早川秀秋は筑前一国から備前・美作の宇喜多旧領へ移され、功績の割にはいまひとつでした。兄である木下家定は、姫路から足守に左遷。勝俊と利房は改易。延俊は、舅である細川忠興の領地に近い豊後日出に追いやられました。

結局、家定は足守には行かずに、京で私と同居することになり、勝俊も近くに住みました。私も西軍よりとみられていたので、あわてて秀吉の遺品を豊国神社に移したりしましたが、茶々などに対するのと同じように、家康は私に咎めなどはせずに、木下家に対して私への不満を思いっきりぶつけられた形です。