ミスiD生ハム子さんと寧々や戦国の女性を語る!

講談社主催で2012年にスタートしたミスiD。「iD」は「アイドル」と「アイデンティティ」。そして「i(私)」と「Diversity(多様性)」。ルックス重視のミスコンとは異なり、ルックスやジャンルに捉われず、新しい時代をサバイブしていく多様な女の子のロールモデルを発掘するオーディションであり、生きづらい女の子たちの新しい居場所になることを目標とするプロジェクトだそうです。

ミスiD2021クリエイティブヒロイン賞を獲得された生ハム子さんと「令和太閤記 寧々の戦国日記」をたねに対談しました。

日本女子大学家政学部卒業後、広告代理店勤務を経て、自らの仕事の不出来に絶望。その後、ゴールデン街勤務を天職だと自覚する傍ら、酒場と人間に翻弄される毎日と共にライターを目指す。

大学在学中に神奈川県大井町観光大使「ひょうたん娘」を務め、2021年、ミスiD2021クリエイティブヒロイン賞受賞されてます。

前編・後編に分かれていますので、お店の詳しい紹介は来週の後編でしますが、リンクだけ貼っておきます。

一階がシャドウ、二階が珍呑です。

シャドウ (新宿三丁目/バー)
★★★☆☆3.05 ■予算(夜):¥3,000~¥3,999
珍呑 (新宿三丁目/バー・お酒(その他))
★★★☆☆3.01 ■予算(夜):¥2,000~¥2,999

これは、生ハム子さんの自己紹介。

生ハム子
新しい時代にふさわしいまだ見たことのない女の子を発掘し育てる講談社主催のオーディション「ミスiD2021」

番組のなかでのやりとりは、動画を見ていただくとして、大河ドラマで女性が主人公のものが結構、多いし、江戸時代と扱った時代劇より奥方たちが活躍するのは、なぜだろうという質問を生ハム子さんからされて解説しています。

そこで、今回は、私の「令和太閤記 寧々の戦国日記」に書いてあることの中から、戦国時代の女性について書いたものを紹介しておきます。

西洋の女性より元気だった戦国の女たち

× 儒教精神で日本の女性は昔から控えめだった。
○ 女性不信の家康が儒教を日本に持ち込んだ。

日本の女性の地位についてはいろんな意見がある。たしかに社会進出については、世界でももっとも遅れた国である。だが、日本の女性が不幸なのかと言えば、「もう一度生まれるなら女かどちらがよい」というアンケートへの回答で、世界でもっとも女性がやっぱり女がよいと答えている国でもある。

そんなわけで日本の女性が不幸だとはいえないのだが、儒教的精神に基づいて男性と違う役割を果たすべしというのが日本の伝統的な美徳だという考えは根強い。

だが、そもそも儒教国に日本がなったのは、德川家康の女性不信の結果だ。ともかく、家康は幼くして母が実家に去り、妻や長男と対立して殺すはめになり、天下を取るために淀殿らと戦わなければならなかったのだから、女性が出しゃばるとろくなことはないと信じて疑わなかったに違いない。

また、戦国時代のバブリーな気分が嫌で、「厭離穢土欣求浄土」を旗印に変化のない世の中こそ理想だと考えた人物である。なにしろ、江戸300年で京都と江戸の所要日数がまったく短縮されなかったのだから、家康の遺訓は馬鹿らしくも見事に守られたのである。

その家康にとって、藤原惺窩(せいか)や林羅山が唱え始めた朱子学の理想こそ世の中を律する上で最高の指針だと思えたのも無理はない。もちろん、孔子の教えは文字の伝来とともに輸入されていたが、処世術くらいにみられていたし、室町時代には禅宗のおまけくらいの扱いだった。

それが德川幕府の庇護のもとでいわば国教化したのだ。とくに、武士は教育程度が低く難しい文書を扱えなかったので、インテリ官僚のかわりが必要だった。それが、、室町時代には禅僧で、江戸時代には儒者がそれにとってかわったのである。

戦国時代の女性について宣教師フロイスは、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。」「日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける」などと西洋の女性に比べて日本の女性が自由であることに驚嘆している。

そのあたりについては、「47都道府県の戦国姫たちの野望」(講談社)で詳しく論じているが、江戸時代には女の園である「大奥」のようなところに隔離されてしか登場しない女性たちが、戦国時代には男たちと対等に渡り合っていたのは、大河ドラマでもおなじみだ。

もちろん、結婚が自由でなかったとかいったことはあるが、それは男も同じであるし、「政略の道具にされ、幼くして嫁がされて子供を生む道具にされた」「幼くして」というのも、どうも誤解があるようだということは、すでに紹介したとおりだ。

なにしろ、お江の娘でも、千姫は秀頼のところにわすか七歳でやってきているし、前田利常の妻になった珠姫が金沢に旅立ったときは、わずか3歳の時だ。京極忠高の妻となった初姫に至っては、生まれると同時にお江の姉である京極お初が小浜に連れ帰っている。つまり、婚家で育てられたと言うことなのだ。

つまり、輿入れをするといっても、現代的に言えば、将来の結婚を前提に養女となり、成熟度合いなどを見て実質的な夫婦関係がなされたのであろう。

秀頼と千姫の場合には、侍女であるお菊が、千姫が16歳の時に鬢揃えという儀式をして、秀頼が剃刀を入れているのを目撃しているが、このときが実質的な夫婦関係の始まりなのではないか。

早すぎる年齢での輿入れが、そのまま、早すぎる夫婦関係につながらないことは、戦国女性たちの第一子出産年齢でも、知りうる限り最も早いのは前田利家の妻であるまつで、数えで13歳で長女を出産している。利家とは従兄弟で一緒に住んでいるうちにということだろうか。まつは、生涯に11人の子を産んだと言われ、格別に頑丈な肉体の持ち主だったのだろうが、普通には16歳くらいよりあとがほとんどだ。

だとすれば、お江が姉たちより先に12歳で結婚したというのは、ある種の「口減らし」という趣旨も込みで、母のお市の同母姉の嫁ぎ先に将来の結婚を前提にもらわれていったというのが正しいのだと思う。