ホッブズ的世界への絶望から、まだ残る良識と2つの希望の萌芽を考える
まだ残る良識
安倍元総理の国葬の日。9月27日。
最近としては珍しく、晴れ晴れとした気分になった。日本国民の良識を見た気がしたからだ。
それまでの国葬を巡る議論が、「いかに公共のために尽力された方を社会として弔うか」という本質ではなく、国葬という形式についての是非だったり、また、「安倍元総理の事績全体をどう考えるか」という全体論ではなく、統一教会との関係ばかりを過度に取り上げるものばかりだったりしたため、正直、陰鬱なる気分の日々を過ごしていた。
どうしてメディアは、本質や全体について考察・報道せず、表層的かつ部分を過度に取り上げて、報じるのか、という思いを強く持っていた。本来期待されていたほどには、外国からの要人が安倍元総理の葬儀に来なくなったことにも、日本国内でのメディアの報道ぶりなどが大きく影響していると感じており、色々な意味で、日本という社会に失望し、残念な想いを抱いていた。
しかし、国葬当日の献花のための長蛇の列をみて、また、菅元総理の弔辞などに心打たれる国民が多くいたことをみて、少しだけ安心し、晴れ晴れとした気分になった。本当に多くの国民が、その政策や政治スタイルには色々な意見もある中で、パブリック(公共)のために頑張った方、安倍元総理に心からの弔意を示していたことに、まだ、社会としての良識が残っていると感じた。
日本社会、特にメディアへの絶望
それにしても、最近は、公共(パブリック)に命を捧げた人たちの死が相次いでおり、色々と考えさせられる。7月に安倍元総理が銃弾に倒れ、8月に旧ソ連の最後の書記長だったゴルバチョフ氏が他界し、そして9月にエリザベス女王が逝去された。
私見では、エリザベス女王は、公共のために尽くした人に相応しい悼まれ方をして、イギリス社会全体からの大きな弔意を一身に受けつつ旅立たれたと思うが、安倍元総理や、特にゴルバチョフ元書記長は、もう少し社会から悼まれて良いように思う。命を削って、公共のために尽くそうと懸命に努力した人を悼むことを忘れる社会には、あまり建設的な未来は展望できない。
前回の記事で、政治家や官僚など、公のために尽くす人材の劣化が進んでいることや、そのメカニズムについて詳述したのでここでは多くは触れない。ただ、世間の賞賛やお金がかなりの勢いで民間セクターに向きはじめていることから、多くの優秀層が公共の仕事を選ばなくなってきているのは確かであり、そのことが社会の劣化を招いているのもまた確実であることは改めて指摘しておきたい。
政治家や官僚などの「公人」に完璧を求め、日本のメディアのように部分部分を取り上げて過度に攻撃することは、優秀層の「公人」志望離れを招き、いわゆる私的市民(自分の(経済的)利益ばかりを追求する市民)の増大を促し、結果として社会の劣化を招く。いわば、社会全体にとって天に唾する行為だ。
日本国民(特にメディア)は、政治や行政を「親」(お上)のように感じて、駄々をこねても、文句をぶつけても、その存在は揺らがないし、最後は面倒を見てくれると高をくくっているが、それは正しくない。欧米のように、政治や行政を「子ども」だと捉えること、即ち、民主主義における「親」は、国民一人一人なのだと理解することが肝要だ。如何に叱ったり褒めたりしながら、「子」としての政治や行政を育てていくか、という視座をしっかりと持つ必要がある。
ホッブズ的世界の現出
民主主義の系譜を考える際、福田歓一氏などの見方に如実だが、ホッブズ→ロック→ルソーと、その深化を理論的に見ていくことが多い。
乱暴に書けば、ホッブズは、信約(covenant)によって主権を統治者(議会でも国王でもある意味どちらでも良い)に委ね自らは私的活動にいそしむ市民、公にはあまり関心を持たなくなる市民を活写したが、それでは物足りないし本質的ではないとロックが「抵抗権」を書き加えた。
原初的には私欲のためかもしれないが(所有権等の確保:財産や生命の維持など)、ロックの描く市民は時に公共に関心を強く持ち、場合によっては、武器をとって国家と闘うほどのコミットメントを保持していた。ロックの抵抗権が米国独立戦争などに影響したことは有名である。
このロックの描く統治者と被統治者の二分性、時に対立する二者としての捉え方を残念に感じたルソーは、同治性の大事さを説いた。つまりは、自分が統治者であるとの強いコミットメントをもった市民(被統治者)からなるコミュニティの強さや重要性、いわゆる共和主義を唱えるわけだが、残念ながら、日本社会は特に、ホッブズの描いた世界、すなわち私的活動(自分の経済的利益など)にいそしみ、公共には関心を持たなくなる市民が多数を占める社会に逆戻りの様相だ。共和=リパブリックの原義は、レス・プブリカ(公共のため、ラテン語)である。
私利私欲が日頃の基本的な行動原理であり、更に、忙しさにかまけて、よほどのことが無ければ公共に関与しようと思わなければ、公共のために頑張っている人をリスペクトしようともしない世の中。フランス革命の挫折を見るまでもなく、世界的・歴史的にみて、真の共和主義の実現は難しいわけだが、特に日本社会での民主主義の劣化は顕著だ。
「民主主義は最悪の政治形態である。他に試みられたあらゆる形態を除けば」という用語で、皮肉たっぷりに民主主義を腐したのはチャーチルであるが、いずれにしても、政治家や官僚が浮かばれない時代になってきた。
2つの萌芽
そんな中、2つの微かな萌芽に期待したい。一つは、社会起業家たちが少しずつ芽生えていることである。少し前に、ゆとり世代の次に来ているのは「さとり世代」という言葉も流行ったが、政治や行政、という形ではなく、つまりは、マスメディアの分かりやすい攻撃を避ける立ち位置から社会を良くして行こう共に携わろう、という動きだ。
具体的には、NPOや一般社団法人など、政治行政や企業体とは違う立場から公共のために頑張るというアプローチである。一昔前は、NPO=左派で、政治や行政とは対立するものだ、という図式が当たり前であったが、最近は、そうでもなくなってきている。
そしてもう一つは、経済人たちによる地域活性などへのコミットメント。これもまた、マスメディアが分かりやすく攻撃する政府・国会という対象へのコミットを避ける形で、経済人などが、身近な地元への貢献などを進める動きが盛んだ。各所で、経済人がスポーツや街づくりへの投資を進めるなどして地域の盛り上げに貢献している。
安倍元総理に対する長い献花の列などをみて、まだかすかに残る日本社会の良識、すなわち公共に関わる勇気ある人材への尊敬の念の重視、を意識することは出来た。しかし、大きくは、マスメディアの政治・行政に対する本質的ではない攻撃とその社会への広がりを目の当たりにして、公共のために頑張ることのバカバカしさを意識せざるを得ない。
実際、多くの優秀な若手が政治・行政を進路として選ぶことが減ってきている。ギリシア・ローマの時代から繰り返されてきた衆愚政治、ホッブズ的世界(私的市民の跋扈)からなる社会の溶解の現出である。
先述のとおり、政治・行政の当事者というポジショニングを避けながらの公共のための奉仕、というアプローチに期待もあるが(2つの萌芽)、いずれにしても、社会として、国民一人一人が、公共分野(パブリック)に対して大いなる関心をもつように当該社会の在り方を抜本的に考えることが大切である。
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