武村正義元蔵相追悼:最高の見識と政局でのアクロバット

非自民連立の細川護煕政権の官房長官や、自社さ連立の村山富市政権の蔵相などを務めた元滋賀県知事の武村正義氏が9月28日、死去していたことが分かった。88歳だった。

2000年の総選挙で、思わぬ敗北をされて政界を引退されたのも、健康上の理由だったが、満身創痍だった。

武村正義氏 NHKより

それでも、最晩年まで健啖家ぶりはかわらず、京都大学病院に知人の見舞いにいったらばったり会って、検査まで時間があるからといって誘われて、かなりの量の食事をしたりした。

とくに、スパゲティが大好きだった。コロナ渦の始まったころには、秘書の方から「本人は元気なつもりだが、できるだけ夜でなく昼にしてくれ」といわれて、京都岡崎の「オ・タン・ペルデュ」といういまはなきフランス料理の名店で、フランス料理の茸のソースを使ったスパゲティを特別につくってもらって、おおいにワインも飲んだのが最後の食事だった。

銀杏会という東京大学の滋賀県同窓会でも年に2回ずつお会いしていたが、それも中止になって、来年、あたりから再開できるかというときに亡くなってしまった。

武村さんは、滋賀県八日市で生まれ、父親が早く亡くなっていたので、親戚の援助で名古屋大学の工学部に入ったが、製図などが苦手で、理科系には向かないと悟って、しばらく、永源寺で雲水などしたのち、東京大学に入り直し、さらに、東京都庁にしばらくつとめたりしたのち、自治省に入省。

愛知県庁に配属されて、そこで、村田敬次郎元通産相が直属上司だった。そこからドイツに留学。本省にいちど戻った後、埼玉県庁の地方課長のときに八日市市長に出馬し、政界入り。

滋賀県知事選挙に全野党共闘の候補として出て当選。2期目と3期目は無投票だったが、自民党の清和会の代議士に華麗なる転身。当選回数がものをいう世界で役割を模索する中で、宮澤内閣不信任案に反対投票をしたうえで離党し、新党さきがけを結成した。

細川連立内閣では官房長官となったが、小沢一郎と対立して決別。自社さ政権誕生の立役者となり、大蔵大臣となった。

民主党創立のときには、鳩山由紀夫から「排除の論理」で参加を認められず、無所属で臨んだ2000年の総選挙で敗北し、健康も害して政界を引退した。晩年は大津市内に住んで、町内会長などもされていた。

滋賀県知事になられる前後からいろんな形でお会いし、首都移転問題などでは一緒に運動したし、政治的に対立したりもしたが、政界を引退されてからは、定期的に食事などして、若い頃の話、そのときどきの政局、日本の将来など腹蔵なく議論できた。たびたび会われた金日成主席のことなど、かなり突っ込んだ話もお伺いした。

若い頃の武村氏のドイツ、私のフランス留学の話などとても楽しい話題だった。武村氏の政治論は結局のところドイツ社民党、私はフランス社会党が根っ子にあって、その共通性と違うところが、議論として楽しかった。

なんども会われた金日成とか、フィクサーといわれる人々の話、政治家の品定めなど、気楽な立場同士なので、いい議論ができた。

ここ数年は、安倍元首相についてよく議論したが、武村氏は安倍晋太郎さんを心から敬愛し、晋太郎氏の秘書時代のイメージで晋三氏には極めて辛口だったので、私は昔のイメージで評価するのはおかしいということで、いろいろ状況をご説明もしたが、「あの晋三がそんな成長するとは信じがたい」とか仰るのが常だった。

北朝鮮とか旧統一教会の経緯についてお聞きしたいと思っていたところの訃報を聴き残念である。心よりご冥福をお祈りする。

私が思うに、武村氏はあの世代の政治家のなかで最高の見識の持ち主の一人だったが、同世代に仲間がいなかった。世襲代議士全盛で、官僚政治家が出にくい状況だったのだ。そこで、バルカン政治家的な権謀術数の世界で日本の政治を引っかき回し、毀誉褒貶されることになったのだが、そのこと自体が日本の政治の悲劇だと思う。

二人で議論したことは、まだ現役の方も多いので、それに配慮しつつ、徐々にアゴラでも、さらに、突っ込んだ話はメルマガで紹介していけると思う。