「人口変容社会」への認識と対応

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「この世で特に怖いもの」

北海道発で1984年創刊の『カーピアセロム』という雑誌がある。10月刊行の『錦秋号』の巻頭言「北の大地・風を読む」では、「令和の故事」として「地震・ミサイル・水・コロナ」が掲げられていた。「物価高は直接的には命を落とすことは少ないがこの4大有事一瞬にして人命を奪いかねない、『国民の命』を脅かすもの」だからという説明が添えてある。

確かにその通りだが、国会やマスコミではこの「4大有事」とくに「ミサイル」への審議は放置され、この3ヶ月間は「国葬」と「宗教」ばかりが論じられてきた。私なりの「地震・ミサイル・神・コロナ」のうち、「神」=「宗教」に特化して盛り上がったという印象を受ける。

ただし、これら以上に現在も重要で、近未来にはますます深刻になる「人口変容」への取り組みが全く行われていないことへの危惧も大きい。なぜなら、国家計画30年の視点がなければ、「人口変容」の構造を解明して、その処方箋が描けないからである。

人口変動特集

そのような未曽有の人口変動が進行する中で、「結婚・家庭・教育の政策情報誌」として長い歴史を持つ『月刊 圓一フォーラム』が、9月号(2022 No.382)と10月号(No.383)の「政策オピニオン」で、「人口変動」に関連した「特集提言」を行った。

「こども家庭庁」開設が半年後に予定される中でまことにタイムリーな企画であったが、いくつかの更なる論点が見出されるので、「アゴラ」を借りて、私は「人口変容社会」の観点からの「差異化」を行っておきたい。

「新しいもの、稀なもの、個性的なもの(これらは、明らかに、同じ根本現象の三つの異なった側面にすぎない)が価値の高いものという意味を持っている」(ジンメル、1917=1979:53)。そのために「差異」は、ここにいわれる「新しいもの、稀なもの、個性的なもの」から派生する。

10月号では、1994年当時厚生労働省に在職していた大泉博子が「エンゼルプラン」を手掛けた当時の「少子化対策」を振り返って、「人口政策」の必要性を力説した。

そこでは「少子化対策」が事実上「保育プラン」になったとの反省が述べられている。この延長線上に、「両立ライフ」=「ワーク・ライフ・バランス」と「待機児童ゼロ作戦」が今日まで続いてきたが、30年後の結果は「超少子社会」(大泉、2022:5)になったという総括となった。

「人口変容社会」の到来

その集約が、14の日本新記録が毎年更新される「人口変容社会」の到来である。「人口変容社会」とは、少子化による年少人口の減少、高齢化による高齢者の増加、そして出生と死亡との差がもたらす総人口の漸減、そして単身者の増加と核家族率の低下によって生じた小家族化という4つの人口動態を核とする実態概念であり、私はこの意味で使用してきた。

現今の人口変動は単なる「少子化」でも「人口減少」でもなく、年少人口・総人口減少と高齢者人口増加が同時進行する「人口変容」として理解できる。

この観点から、まずは2022年敬老の日のデータと8月9日発表の総務省「人口動態調査」などにより、最新の高齢化関連の人口動態をまとめておこう。

高齢化関連の新記録

  1. 全人口1億2471万人に占める65歳以上比率(高齢化率)が29.1%になった(1番目の新記録)。これは総務省が9月15日時点で行なった「人口推計」結果である。2位はイタリア(総人口6000万人、24.1%)3位はフィンランド(総人口554万人、23.3%)であったので、この数値は世界新記録の比率でもある。
  2. 合わせて75歳以上(後期高齢者)人口比率も15.5%に達して、こちらが2番目の新記録となった。
  3. その時点での高齢者実数は3627万人を数え、日本新記録を更新した(3番目)。
  4. 後期高齢者総数も1937万人になり、日本新記録となった(4番目)。
  5. 2021年の出生者が約82万人で、亡くなった人は144万人あまりだったので、総人口が約62万人減少した(5番目)。
  6. 日本の総人口減少は13年間連続している(6番目)。
  7. 2022年の敬老の日の発表では、高齢女性が2053万人(女性人口の32.0%)、男性も1574万人(同26.0%)で、ともに新記録を達成した(7番目)。
  8. 同じく、高齢者就業者総数18年連続で増加して、909万人となった(8番目)。ただし、高齢人口に占める就業者率は25.1%で前年と変わらなかった。
  9. 被雇用者のうち、非正規雇用が75.9%(他は会社役員、自営業、自由業等)を占めた。その中で65歳から69歳までの就業率は50.3%で、9番目の新記録となった。
  10. 「年少人口」と「高齢人口」を除いた「生産年齢人口」が58.99%にまで低下した。高齢化関連ではこれが10番目の日本新記録である。

【論点1】人口政策が可能として、高齢化関連では何をどうしようというのか?

少子化関連の日本新記録

次に少子化関連の日本新記録を整理しておこう。少し古いが、総務省が2022年5月5日(子どもの日)に発表したデータにより、日本新の記録更新を掲載する。

  1. 2021年の単年度出生数が約82万人まで下がった(11番目)。
  2. 1982年からの「年少人口数」の連続的減少で、その実数は1465万人となった(12番目の日本新記録)。
  3. 1975年からの「年少人口率」の連続的減少で、その比率は11.7%になった(13番目)。
  4. 日本の平均世帯人員は2.11人になった(14番目の日本新記録)。

【論点2】この日本新記録を更新し続ける「年少人口」に対して、「人口政策」で何をどうするのか?

このような事実を前提にすると、「人口政策」の実行は現実的には困難である。なぜなら、たとえば『広辞苑』(第六版)を引くと、「人口政策」の説明として、「出生の奨励や抑制、集中した人口の分散など、人口に関する政策」とあるからである。

少子化による「人口減少」の日本では、もはや「出生の抑制」はあり得ない。しかし歴史的な観点からすると、結婚の延期や晩婚化の奨励はもちろん、「優性保護」や「優生学」の思い出が「人口政策」にはまつわり付く。

さらに、20世紀の人口増加が普遍的趨勢の時代では、「家族計画(family planning)が盛んに嚮導されたが、これは手段と目的が鮮明な受胎調節、計画出産、産児制限の勧奨として行われた。その象徴的な「人口政策」は中国が実行した「一人っ子政策」であった。この事例からも「家族計画」は自動的に「人口抑制政策」になりえても、総合的「人口政策」とは程遠い。

人口方程式の活用

第二次世界大戦の敗戦国である日独伊の3国では、大泉(同上:4)もいうように、大戦中の「産めよ殖やせよ」というスローガンが封じられたままであり、いずれも少子化も高齢化も進んでいる。調査時点は異なるが、人口4000万人以上の35カ国のうち、日本の年少人口比率は11.7%で最低であり、その上の韓国が11.9%、そしてイタリアが12.9%、ドイツが13.8%と続いている。なお、イタリアが世界の高齢化率で日本に次いで第2位であったことは既述した。

このような75年前に遡及できる歴史的事情により、日本での「人口政策」は為政者にもマスコミにも不人気であり、「人口」は「政策」的に制御するものではなく、社会システム全体の生産力と国民の生活水準との関連で、自然に落ち着くと見られてきた。

それを先取りして、80年前に高田保馬は「人口方程式」として集約した。これは、

と表現される。したがって、

となる。

Sは社会成員の生活水準、Bは人口、Pは社会の生産力、dは社会の生産総額の分配比率とされた(高田、1934:122)。これらのバランスの取れた組み合わせが人口(B)増加の要因になったことは、日本史上空前の高度成長期の歴史で証明されている。

私の立場は、「少子化する高齢社会」全体像を包摂する枠組みを、社会学の立場から高田により彫琢された「人口方程式」に求めるものであり、2022年8月25日9月1日のアゴラで、その理論的展開を行った(金子、2022a;2022b)。

来年4月からの「こども家庭庁」を信頼すると、今後は「こども真ん中」の日本社会システム設計づくりになるから、個人の生活水準と社会の生産力の関連で自動的に人口が決まるという構図(2)をしっかり理解しておきたい。

「人口変容社会」と「人口政策」との差異化

以上の「人口変容社会」と大泉の「人口政策」との差異化を示してみよう。

わずか6頁のなかで大泉は「人口政策」を15回使用して、その重要性を強調したが、論点も残っている。とりわけ一番の疑問は、「日本の国益として、……(中略)日本の国際的地位を実現するための政策」(大泉、前掲論文:6)という位置づけ方である。「人口減少」によりそれまでの経済力を維持できなくなり、国際的地位が下がることへの危機感がそこに読み取れる。

しかし、「世界人口UNFPA版」(2022)によれば、人口総数の上位11カ国は表1の通りである。3位のアメリカと11位の日本を除けば途上国がほとんどであり、これに中国とロシアが加わっている。

表1 2022年の世界人口の国別順位
出典:「世界人口UNFPA版」(2022)

この表から「経済力、国際社会で民主主義の価値をもった先進国で、国際的地位を実現」(同上:6)している国を見つけるのは容易ではない。それはロシアによるウクライナへの侵略戦争に関連して、繰り返されてきた国連安保理の議決結果を見ればよく分かるであろう。そのために慎重な表現で大泉は「適正な人口」(同上:6)が必要であるとした。

しかし、

【論点3】具体的な「適正数値」を「人口政策」で決定できるのか。

さらに

【論点4】「特に若い世代が必要である」(同右:6)ならば、「未婚化が広がり、結婚したカップルにも子供が少なく、消費は低迷している」(同右:6)現状を、どのような「人口政策」で変えるのか。

北欧やヨーロッパを恣意的に持ち出さない

過去数十年にわたり、人口や福祉それに社会保障やまちづくりの議論では、全く唐突に北欧やヨーロッパの事例が使われることが多かった。『月刊 圓一フォーラム』9月号ではフィンランド、10月号ではヨーロッパとして使用された事例がこれに該当する。そして必ず「見倣うべき」(同上:7)と結論される。

たとえば、フィンランドの人口は554万人程度しかなく、いわゆる標準消費税は22~25%程度で、食料品消費税も17%になっている。これに対して、日本人口は約23倍の1億2471万人で、消費税は10%なので、両者ともに全く異なる。

これらを無視した比較は、研究の標準を満たしていない。たとえば150人の入院ベッドをもつ中型病院と6つのベッドを持つ個人開業医を比べているようなものである。あるいは100万人の政令指定都市と人口4万人の地方都市を比較することに似ている。

それぞれの規模に応じて予算と人員が異なるのは当然であり、組織のシステムも文化も違う。病院と診療所では診療科目、医師、看護師、医療機器などが大きく違ってくる。また、自治体でも副市長の数、部局の数、職員数などが大幅に異なる。

【論点5】規模を無視した比較はそれから先の議論にとって有効にはならない。

たとえば「年少人口率」の日本との比較でさえも、国連加盟国のうち人口4000万人以上の35か国でのみ行われている。比較規準に留意しない福祉系の「悪癖」は各方面で批判されてきたが、『月刊 圓一フォーラム』の9月号と10月号の「政策オピニオン」で繰り返されたのはまことに残念である。

地方創生は地方で完結できる経済圏の構築を狙うのではない

いうまでもなく地方創生でいわれる「まち・ひと・しごと」はすべてがローカルの単位ではあるが、その範囲はグローバルに拡張する。観光によるインバウンド消費の実体がそれを教えてくれる。円安ということもあり、世界遺産、日本遺産、城下町の歴史、金銀鉱山史跡、1000年以上続く温泉などの観光資源をもつ「まち」には、世界中から「ひと」が押し寄せてくる。それを地元の「ひと」が「しごと」として応対する。

たとえば、北海道の「早来雪だるま」でも送り先は東京圏や関西圏であり、岐阜県関市の「刃物」でも新潟県燕市の「ステンレス」でも世界を相手の開発商品であり、「地方で完結できる経済圏」からは大きくはみ出している。

兵庫県の丹波篠山は「デカンショ節」の故郷として日本遺産第1号の認定を受けて、日本全国からの観光客の増加が見られるが、YouTubeでも「丹波篠山風の音」というオリジナル曲で「まちづくり」を支援する動きもあり、これもまた「地方完結経済圏」ではない。

「人口政策」で「人口の質」の左右が可能なのか

経済力や出生率が「教育」に関係する(同上:8)ことは当然であろう。具体策としての「学齢を下げる」ことの功罪を問う立場ではないので、これは省略するが、43年間の大学教師の経験から3点を指摘しておきたい。

一つは「800程度の4年制大学の淘汰」を「文科省の仕事」(同上:8)とすると、権力の介入に関する不都合な事実が頻発する恐れがある。大学理事長から地元選出国会議員へのルートを経由した文科省への働きかけの危険性が増大するからである。

【論点6】文科省による「大学の淘汰」(同上:8)の決定は、大学間の競争原理に基づく「自然淘汰」方針より優れているか。

第二に、文科省の中に「企業連携部署を新設して教育とのつながりの強化」(同上:8)を図ることは、各方面で国民が見聞してきた企業と官庁間の「癒着」の温床になるので止めた方がいい。

【論点7】教育だけが教育制度の問題ではなく、研究力との兼ね合わせが大学の存在意義を増す。

第三に、「大学で人間らしい時間が持てる」(同上:9)とは何か。その時間で行うことは「人生を考える」ことか、語学か、専門科目の学習か、社会調査か、部活か、バイトか。

必修ゼミの発表を欠席して、バイト先のローテーションを優先する学生は、スキルアップ用に「自由時間」をおそらく使わないであろう。また、そのような「学ぶ」経験が乏しいままに「社会人」になって10年20年後に、リカレント教育や「社会人入学」で「時間の中身」(同上:9)が変わるとも思えない。

高校入試9科目制の提言

教育が国家の根幹であることを明治維新から100年間の日本政府は熟知していたが、高度成長期からの進学熱は、必ずしも教育の原義である「その人の能力を引き出す」(education)ことに成功してこなかった。

たとえば高校入試では主要5科目しか出題されないので、中学校の正規科目の音楽、美術、保健体育、技術家庭への取り組みが全国的に後回しされてきた。ただし主要5科目はだめだが、残り4科目のどれかに関心を持ち高い能力を発揮する生徒は少なくない。

実は、私たち団塊世代が中学生だった時代前後の7年間だけ、全国の高校入試は9科目出題で行なわれていた。そのため音楽活動の基礎的な能力や「色の三原色」の知識、そして好みのスポーツのルールなどを学んだ成果が50年後に活かされて、高齢者としての生きる喜びである「生きがい」に直結している。

何しろ、高齢者の生きがいの8割以上は、高校入試で「捨てた科目」の音楽系、美術系、保健体育系、技術・家庭系で構成されているからである(金子、2014:192)。

【論点9】高校入試は全国的に9科目にしたほうが多様な人材を発見できる。

教育を「その人の能力を引き出す」ことだとすれば、「新しい資本主義」でも繰り返される「人材の質向上」のためには、高校入試の科目の見直しから始めることに意味があるのではないだろうか。

【参照文献】

  • 圓一出版編集部,2022,「政策オピニオン:少子化・人口減少の現状と『家族政策』『人口政策』の提言」『月刊 圓一フォーラム』9月号(No.382)平和政策研究所:4-9.
  • 金子勇,1998,『高齢社会とあなた』日本放送出版協会.
  • 金子勇,2006,『少子化する高齢社会』日本放送出版協会.
  • 金子勇,2014,『日本のアクティブエイジング』北海道大学出版会
  • 金子勇,2016,『子育て共同参画社会』ミネルヴァ書房
  • 金子勇,2020,『「抜け殻家族」が生む児童虐待』ミネルヴァ書房
  • 金子勇,2022,『児童虐待という病理-「脱け殻家族」の果てにある日本社会への提言』電子ブック版.
  • 金子勇,2022a,「人口減少をめぐる社会学的想像力」(前編)アゴラ言論プラットフォーム(8月25日)
  • 金子勇,2022b,「人口減少をめぐる社会学的想像力」(後編)アゴラ言論プラットフォーム(9月1日)
  • 森嶋通夫,1999,『なぜ日本は没落するか』岩波書店.
  • 大泉博子,2022,「政策オピニオン:少子化対策の問題点と超少子社会日本への提言」『月刊 圓一フォーラム』10月号(No.383)平和政策研究所:4-9.
  • 佐藤公,2022,「巻頭言」『カーピアセロム』第44巻 第307号 イベント工学研究所
  • Simmel,G,1917,Grundfragen der Soziologie : Individuum und Gesellschaft, Sammlung Göschen. (1979 清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波書店).
  • 高田保馬,1934,『マルクス経済学論評』改造社