旧統一教会問題の報道に思う「テロ」と「違法性」

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現代ビジネスの記事を、興味深く読みました。

安倍氏銃撃事件から100日経っても‟統一教会報道“を続けるワイドショー関係者のホンネ「やめたくてもやめられない」「エイトさんの登場が転換点」

感想を一言で言えば、「なるほどなぁ」となるでしょうか。

確かに、この「旧統一教会問題」の報道は、新型コロナウイルスの報道と並んで「報道機関のライフワーク」のような様相を呈しています。

旧統一教会との関係性を問うアンケート

先日、佐倉市のある市民団体から、市議会議員として急統一教会との関係性を問うアンケートが届きました。私は、一切関係ないのでそのように返答しつつ、やはり「佐倉市議会はどこまで侵食されているか?」について、興味がある自分に気づきました。

佐倉市には旧統一教会の教会も所在しており、市長がこの教会に行って挨拶した件については、千葉日報の先行報道のもとNHKなど多くの報道がありましたし、議会内部では「あの議員はこんなことをした」や「こんなイベントで挨拶した」という写真や怪情報が今も飛び回っています。

違法性とテロ

旧統一教会問題は、違法性がはっきりしないまま「世間の問題意識」が先行して走っているという意味で、記事にあるミッチーサッチー問題に似ているとも思います。また、ミッチーサッチー問題との違いも、記事の通り「報道する必然性の有無」という点では合意します。

一方で忘れてはいけないのが、この報道が過熱化の一途をたどっている現状は、一つのテロが発端であった、という点です。テロリストは、現状に満足しているはずです。

祝福二世問題や、献金の上限問題、規制のあり方など、徹底的に議論して前に進めてもらいたいと思う一方で、「前提としての違法性」や「テロドリブンだった発端」をどう考えるか、という点を主軸に据えた冷静な報道も、報道各社に期待したいと思います。

単に世論に後押しされて報道が過熱していく構造は、かつて我が国を大戦に導いた新聞報道の在り方と何ら変わりがないと考えるからです。