「脱炭素」をめぐる想像力の問題

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学術的知識の扱い方

学界の常識として、研究により獲得された学術的知識は、その創出、伝達、利用の3点での適切な扱いが望ましい。これは自然科学社会科学を問わず真理である。ところが、「脱炭素」や「地球温暖化」をめぐる動向では、これら3点に照らしてみると疑いたくなるような事実が散見される。

まず創り出された周知の知識として、地震、雷、台風、暴風雪、酷暑、極寒の予防に人類が全く無力であることは、幼い子どもから100歳まで誰でも知っている。

加えて、気象庁が行い、ネットで結果が公開されている2007年の「天気予報に関する満足度調査」によれば、「今日・明日・明後日の天気予報」の重視度は90点、「週間予報」のそれは87点だが、一カ月予報になると、重視度は62点に下がり、三カ月予報ではさらに下がって48点になってしまう(金子、2009:146)。わずか3カ月先の予報などについての重視度は、明日の予報に比べて半減するのである。

そうすると、IPCCやCOPで言われ続けてきた2100年の地球温度上昇が、1.5度~3度になるなどを無視する人々が出てきても不思議ではない。なぜなら、これらの予想される上昇温度は主としてコンピューターシミュレーションの結果であり、入力データを変えれば、弾き出される結果も異なることは自明だからである。

その70年先の予測値を示して、危機に備えろと言われても、データの創出過程に疑問があること以上に、3ヵ月先の予報にすら重視度を半減させる人間の感覚は、70年先への想像力を発揮しにくいのではないか。

「クライメートゲート事件」に触れない「脱炭素」推進派

しかし、2009年に発生した「クライメートゲート事件」に触れないまま、国連主導に追随する日本政府とその関連機関が遂行してきた「誤作為」の結果、地球温暖化論や脱炭素社会づくり論では将来への絶望論と仮定法が組み合わされて、誤った情報が伝達され続けられている。その結果、誤知識が乱造されマスメディアを通して拡散した。

さらにその誤知識に基づく「予防原則」が適用され、渡辺正の推計では2005年から2030年までに総額で100兆円が「温暖化を防ぐために」費消されるという(渡辺、2022)。この税金が国民の暮らし、教育、治山治水、国防などに向けられていたら、現代日本の暮らし良さとしての「生活の質」もそれほど低下しなかったであろう。

NHKを筆頭に大新聞も「再エネ」強調

繰り返すが、伝達面ではNHKを筆頭に大新聞の大半もブロック紙も、そのほとんが「二酸化炭素地球温暖化論」をそのまま受け入れた報道を続けてきた。文科省に至っては義務教育の教科書にさえも、疑問が多く意見の集約に至っていない「二酸化炭素地球温暖化論」を書き加えてきた。

利用面でも、化石燃料により「地球の未来が危うい」という一点を共有した脱炭素「推進派」が、「地球に優しい」「再エネ」を世界全体で普及させてきた。

装置としての風力発電機では膨大な鉄材とセメント需要が見込めるから、関連業界ではこの言説を支持することになる。ただし太陽光発電では、パネル製造の9割を占める新疆ウィグル地区で、その少数民族へのジェノサイドとしての「強制労働」の疑いが世界的に持たれ始めた。

ロシアの侵略でEUは化石燃料使用へと回帰した

同時に、国連やEU主導により、化石燃料として石炭火力発電の廃止決定や脱原発運動などが、「再エネ」期待論を押し上げる役割を果たしてきた。

しかし、2022年2月24日からのロシアによるウクライナ侵略戦争がエネルギー危機を招来したので、国連はともかくEUの多くが化石燃料へ回帰を行い、二酸化炭素地球温暖化論の行方も不明瞭になった。

「温暖化論争」の30年間を回顧すると、「地球温暖化」や「脱炭素社会」の知識の創出、伝達、利用のすべてで、「懐疑派」の投げかけた疑問点は解消されていない。

そこには、クライメートゲート事件を追跡した結果としてのべられた「自然界の真実を追求する科学への信頼を落した」(モシャー&フラー、2010=2010:278)という指摘が重なってくる。

環境テロの発生

さらに「脱炭素」派の活動家により、世界的に文化財として認知され、広く公開されている絵画への破壊行為が続いている。環境団体の活動家が「化石燃料」反対や「気候変動対策」の訴えのために行っているという。

最近では、10月14日にゴッホの「ひまわり」にトマトスープ、11月15日にはグスタフ・クリムト作「死と生」に黒い液体をかけ、米ポップアートの巨匠ウォーホル展覧会場で本人が塗装を手掛けたアートカー「BMW M1」に8キロの小麦粉をかけ、11月18日にはチャールズ・レイの彫刻にオレンジ色のペンキをかけて、自己主張の行動を行ったとニュースが伝えている。

これは環境版の「焚書坑儒」ではないか。

思想の多様性への配慮がない

そこには思想の多様性への配慮はもちろん、人類の知的遺産への尊敬も皆無である。ひたすらに自分の信念のための行動しかなく、自分を支えている社会や国家や世界全体の動きへの想像力につながっていない。

単なる空想とは異なり、想像力は自らの身辺の出来事から次第に拡張して、最終的には全世界へと飛翔する。しかし、人それぞれに関心の置き方が違うから、環境テロへの関心を示さないことを批判できるわけもなく、同時にたとえば児童虐待死への関心の維持を褒めることもできない。

そのように想像力は個人のいわば感性にそって構築されるために、特定領域への「想像力欠乏」はむしろ自然なのであり、「学ぶ力」が欠けているわけでもない(斎藤、2022)。なぜなら、気候変動への想像力を発揮するものの大半は児童虐待死には無関心なのであるからである(金子、2022a)。

「推進派」による二酸化炭素「悪玉論」

世界的に見ても、国連や国連傘下のIPCCやCOP、日本の環境省や国立環境研究所などのように、「二酸化炭素地球温暖化」を信じて、人体の14%を構成して、植物の光合成に不可避な二酸化炭素を「悪者」扱いする立場もあるが、そのような荒唐無稽な信念への「懐疑派」も数多い。

そして、その現状を打開する試みも少なからず存在する。

杉山大志氏による東京都「パネル義務付け」反対の請願

2022年 9月20日に行われた小池都知事の「所信表明演説」に基づき、東京都は、住宅などの新築中小建物に対する太陽光発電の整備を義務付ける「環境確保条例」を2022年12月の都議会に提出して、2025年4月からの施行を予定している。

これに対して環境研究者の杉山が「義務化反対」の請願を同じ日に提出した(杉山、2022a)。その理由には、①太陽光パネル製造には、中国による新疆ウィグル地区の少数民族へのジェノサイドとしての「強制労働」の疑いがあること、②太陽光パネルの設置者は「元が取れる」とされているが、「再エネ賦課金」も含めて一般国民の巨額の負担を前提にしていること、③水害時には太陽光発電設備には感電・漏電の恐れが強く、人命が失われる危険性が想定されること、があげられている。

いずれも自然科学的判断による想像力に依拠した「異議申し立て」だと思われる。

①についてはすでに触れた。②に関しては、世帯当たりの現在の金額は月額1100円程度なので、円安や諸物価高騰の中ではその負担が重い人々が増えている。さらに当初に比べると、パネルを設置した人を設置しない人が支えることへの違和感が、国民の間でも広がってきた。

③については自然科学の定説からの危険性を打ち出したものであり、支持者が多いであろう。

使用価値と交換価値

自然科学からの疑問とともに、社会科学からでもたとえば『資本論』第1巻第1章での「使用価値」と「交換価値」を使って、「脱炭素社会」のための「再エネ」の問題点を指摘できる。

両者の関連は、フランス語版『資本論』では、「使用価値は、使用することまたは消費することにおいて、はじめて実現される。それは、富の社会的形態がどうあろうとも、富の素材をなしている。われわれが考究すべき社会では、それは同時に交換価値の素材的な担い手である。(中略)交換価値はまず、量的な関係として、相異なる種類の使用価値が相互に交換しあう割合、すなわち時と所とともに不断に変化する関係として、現われる」(傍点原文、マルクス、1872-1875=1979:4-5)となる。

一般に商品は、消費者に「交換価値」を感じさせる力をもつことで、消費者が持つ貨幣と交換される。そうでなければ、製造した資本家にも労働者にも「使用価値」、すなわち貨幣をもたらさない。「量的関係、割合」としての「交換価値」は上下動するために、価格もまたそれに合わせて変動する。

太陽光パネルには有害物質が含まれている

太陽光パネルに鉛・セレン等の有害物質が含まれていることなどから、発電事業の終了後、太陽光発電設備の放置・不法投棄が懸念されても仕方がない。これでは「使用価値」については不安が生じるために、「交換価値」が発生するとは考えにくい。

しかし、「脱炭素推進派」の多くはこの点について沈黙を守っているように思われる。原発の放射性廃棄物問題などについては熱心だが、有害物質についてだけではなく、風力発電機や太陽光パネルの寿命がくる25年後の解体費用にも触れないことが多い。

実際には、太陽光発電設備の解体・撤去及びこれに伴い発生する廃棄物の処理(以下「廃棄等」または 「解体等」)は、発電事業者の責任の下、廃棄物の処理及び清掃に関する法律(以下「廃棄物処理法」)等に基づく実行が求められてきた。

なお、「3.11」のあとに制定されたFIT制度では、適正処理を促すという観点も踏まえ、事業用太陽光発電(10kW以上)については、制度創設以来、廃棄等に必要な費用(以下「廃棄等費用」という)を想定した上で、その廃棄等費用を織り込んで調達価格が決定されてきた。

電力料金のもつ機能的等価性の有無

そこで、電力料金のもつ機能的等価性について点検しておこう。原発の場合は核のゴミの投棄、補修、解体工事諸費用が含まれるのに、「再生エネ」関連ではそれらが含まれていないままで推移してきた。とりわけ今後期待される洋上風力発電の予想単価が非常に高い。表1から原子力と比較すればその割高さは鮮明である。

すなわち洋上風力発電は、本当に国民や国内産業にとって「使用価値」が高い投資対象なのか。税金による無制限の「交換価値」があるのだろうか。

あらゆる商品の料金には、原材料購入費、工場への輸送費、人件費、製造費、製品の輸送費、広告代金、販売手数料、利益などが合算されている。電力もまた商品なので、その料金にはこのような諸費用が含まれているのは当然である。ただし、高度に公共性をもつ商品なので、かつては政府の許認可の範囲での費用決定が行われてきた。

表1では1kWh当たりの発電コストとして、2020年も2030年もその年に新たな発電設備を更地に建設・運転した際の発電コストを示した。

表1 2020年と2030年の発電コストの試算結果
原典:資源エネルギー庁ホームページ「発電コスト検証について」(2021年8月3日)閲覧日、2021年8月5日
出典:金子勇「二酸化炭素地球温暖化と脱炭素社会の機能分析(その5)国際環境経済研究所(2022年1月14日)
※1キロワット時当たりの発電コスト。政策経費を含めた値
2020年も2030年も、その年に新たな発電設備を更地に建設・運転した際の発電コスト。
2030年(2)は、太陽光発電と風力発電では、安定供給のために火力発電のバックアップ電源などが必要になるため、その費用を反映させた結果である。従って、火発でのバックアップ電力を合算すれば、この両者でも二酸化炭素の排出はあるという結論になる。

誤った「再エネ」電気料金

一部のマスコミは表1の2030年(1)に依拠して、2030年の「再エネ」電気料金がそれまで一番安いとされてきた原発の電力料金よりも安くなったことから、「日本でも25年には太陽光発電が最も安くなると予測されている」(『北海道新聞』2021年10月29日)といった記事を量産している。

しかし施設や装置には必ず耐久年度があり、解体され、処理され、そして再建される。その費用もまた商品価格に含まれている。原発にはいわゆる「核のゴミ」の処理費用問題が当初から存在しているので、「政策経費」に含められてきた。具体的には原発の費用算定には、廃炉費用、核燃料サイクル費用、事故対応費用(損害賠償・除染費用を含む)、電源立地交付金、もんじゅ研究開発費などが含まれている。また火発では二酸化炭素対策費も含まれてきた(表2)。

表2 原発と火発のコスト比較
原典)資源エネルギー庁ホームページ「発電コスト検証について」(2021年8月3日)
それでも燃料費が高いLNG火発は10.7円kWhであり、石炭火力でも12.5円kWhに収まっていて、原発のコストが11.5円kWhとなっている。(出典)表1と同じ。

これに対して、従来から他の電源による発電コストが低いことを強調してきた「再エネ」価格は、取りあえず安定供給のために火力発電のバックアップ電源などが必要になるため、初めてその費用を反映させた結果が示された。そうすると、表1「2030年(2)」で明らかになったように、事業用太陽光発電コストは10円値上がりしたし、陸上風力発電でも9円の増加となった。これは「原発・火発」との機能的等価性を満たしていない。

進まない廃棄等費用を積立て

そのため、認定事業者には、基本的には運転開始後20年が経過した後に備えて、廃棄等費用を積立てることが期待されている。ただし、従来はその実施率が低かったために、2018年4月には、事業用太陽光発電設備(10kW以上)の廃棄等費用の積立てを「事業計画策定ガイドライン(太陽光発電)」(資源エネルギー庁)により遵守事項とし、事業計画策定時には廃棄等費用の算定額とその積立て計画の記載が求められるに至った。

また、同年7月から再エネ特措法施行規則に基づく定期報告において、運転開始後に積立ての進捗状況を報告することを義務化した。しかし、積立ての水準や時期は事業者の判断に委ねられていたこともあり、2019年1月末時点でも、積立ての実施率は低い状況にあった。

3基の解体費用が50億円

そのため、2021年に発生した福島県沖合で3基の洋上風力発電設備の撤去事業に国費が50億円もかかったという事実に基づき、建造だけではなく、解体・廃棄までの目配りを強調したしたことがある(金子、2022:20)。陸上風力発電施設の撤去費用でも、上越市の3基の撤去費用が1億5千万円だという記事も紹介した(同上:45)。この両者はいずれも全額税金が使われている。

しかしたとえば外資系の大手であるカナディアン・ソーラーは、日本全国にすでに25の太陽光発電所を持ち、パネル出力合計は183.9MW(18万3900kW)となっている(カナディアン・ソーラー『第9期試算運用報告』2021年)。そして『廃棄ガイドライン』に沿って、もっとも早い時期の積み立て開始を2022年7月1日からとして、順次積み立てを行うとある(同上:20)。このような大手の場合は「廃棄等費用」の積み立てがまもなく開始されるが、中小零細企業ではどうだろうか。

電力に関しては、生産者にとって交換価値が重要であるが、消費者にとっては使用価値に重みがある。何よりも安全で高品質の電力の安定した社会的供給こそが、国民全体の使用価値を高めるはずである。

「使用価値」と「交換価値」による「脱炭素社会」づくりの再点検をしよう

これまでの「経済優先」が交換価値を、「生活優先」が使用価値をそれぞれ重視してきた歴史を見ると、自然に優しいといいながらも自然破壊を必然化する太陽光発電や風力発電は、交換価値も使用価値も低いままであり続ける。

パーソンズの用語を使えば、とりわけ見てくれの「表出性」(expressive)に特化した「再エネ」は使用価値に難点があるとともに高価格だから、「道具性」(instrumental)に優れた原発や火発との機能的等価交換性は低くなる。そのために表出的な「再エネ」は依然として未来の不安定な希望的観測でしかありえない。もちろん2050年の「脱炭素」の一環として、2030年に二酸化炭素の46%削減達成などは夢物語であろう。

自然に優しくない「再エネ」

私が危惧するのは、「使用価値」は原発や火発に比べられないほど乏しいのに、陸上風力も洋上風力も地球温暖化対策、原発の廃止、火力発電の縮小という大義名分を掲げて、「再エネ」事業者や運動家は税金による「交換価値」の極大化を狙っている点にある。

呼応する日本政府でも夏場冬場の停電危険性を前提にしてまでも、2020年度に「再エネ」や水素の活用など脱炭素の技術革新のために2兆円の基金を創設して、動きを仕掛けてきた。GXとしてイノベーションの基盤づくりは構わないが、目標とする「脱炭素社会」づくりは科学的に見て正しい目標なのか。

洋上風力発電機や陸上風力発電機の撤去が教えたように、「自然に優しい」を謳いながら、巨額の税金を使い、自然破壊を進めていることへの国民的な不安に応えられるか。

治山治水の充実を

なぜなら、「生態系は機能主義的で、工学的に操作され、技術主義的である。それは私有化され、商業化され、貨幣化されており、使用価値の領有と生産とを通じて交換価値(とりわけ賃貸料(レン)/(/)使用料(ト))の産出極大化を指向している」(ハーヴェイ、2014=2017:343)からである。発電量や安定性で火発や原発にはかなり劣る「再エネ」の「使用価値」は高くはない。

むしろ20年前に比べて半額の1兆円に下げられた「治水事業費」予算を2倍に復活して、自然を活かす「防災投資」の方の価値が高い。その意味でも、「交換価値」が高い公共事業がもつ「使用価値」の見直しこそが急務であろう。

リヴィングストンの慧眼

かつてリヴィングストンは生態系を破壊する方法として、①単純化、②複雑さを減少させる、③構成要素の相互依存の上に維持されている均衡を短絡させる、と指摘したことがある(リヴィングストン、1973=1992:274)。「脱炭素社会」づくりの手段として、特定した海域や特定区画や海底を洋上風力発電のみに使うことは生態系の破壊であり、それは自然に優しいことでもない。

自然生態系は複雑であり、生物多様性にみられるように、多様化を是としてきた。それによって、恒常性も維持してきたので、人間も含めた生物多様性の重要性がいわれはじめて久しい。その点からも、生態系の人為的単純化は自然法則と矛盾すると考えられる。「ある生態系が存在していた期間が長いほど、多様化、複雑化、したがって安定化のための時間があったことになる」(同上:46)。

数千年の生態系を壊して、火力発電や原発の代わりに数年間の工事により、一定面積の海域や海底を洋上風力発電のために使うという「再エネ」は、果たして自然に優しいのか。しかもその「再エネ」は原発・火発一基の発電量にも及ばない。25年後の高齢化率35%時代には大量の残骸が陸上や洋上海域に溢れて、膨大な撤去費用がかさむことも予見される。

リヴィングストンが引用したバイロンの言葉、「人の支配は海辺で止まり、その先の大海についてはすべてが海自体の成すことだ」(同上:47)あたりまでしか、現在の世界人類がもちうる想像力は届かないのではないか。

【参照文献】

  • Harvey,D,2014.Seventeen Contradictions and the End of Capitalism, Profile Books.(=2017 大屋定晴ほか訳『資本主義の終焉』作品社).
  • 金子勇,2009,『社会分析』ミネルヴァ書房
  • 金子勇,2012,『環境問題の知識社会学』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2022a,「自然再生エネルギーの『使用価値』と『交換価値』」『現代社会研究』第8号 神戸学院大学現代社会学部:17-53.
  • 金子勇,2022b,『児童虐待という病理』(電子ブック版)22世紀アート.
  • Livingston,J.A.,1973,One Cosmic Instant―Man’s Fleeting Supremacy―,Houghton Mifflin Company.(=1992 日高敏隆・羽田節子訳 『破壊の伝統-人間文明の本質を問う』講談社).
  • Marx,K,(traduction de Roy),1872-1875,Le Capital,Maurice Lachatre et Cie(=1979 江夏美千穂・上杉聰彦訳『フランス語版資本論』(上下)法政大学出版局).
  • Mosher,S & Fuller,T.,2010,Climategate-CRUtape Letters,Createspace.(=2010 渡辺正訳 『地球温暖化スキャンダル』日本評論社.
  • Parsons,T.,1951,The Social System,The Free Press.(=1974佐藤勉訳『社会体系論』青木書店).
  • 斎藤幸平,2022,「ゴッホ名画にスープ投げを理解せぬ日本の欠点-かなり根が深い『想像力欠乏』状態の蔓延」東洋経済オンライン(11月8日)
  • 杉山大志,2022a,「東京都太陽光パネル義務付けの問題点」杉山ホームページ.
  • 杉山大志,2022b,「中国の石炭で造った太陽光パネルで二酸化炭素は減るのか」アゴラ言論プラットフォーム(11月19日)
  • 渡辺正,2022,『「気候変動・脱炭素」14のウソ』丸善出版