創価学会は、1930年に牧口常三郎(尋常小学校校長)を会長として、「創価教育学会」して始まり、37年に日蓮正宗の法華講(信徒組織)となった。
第2次世界大戦中の43年、牧口ら幹部が「教育勅語」の問題点を批判し治安維持法ならびに伊勢神宮に対する不敬罪で逮捕され、牧口は拘留中に獄死した。
戦後、後継者の戸田城聖は「創価学会」に改称し、52年に独立した宗教法人となり、「折伏大行進」という大規模な布教活動が行われ、創価学会の勢力は急拡大する一方、在来宗派との確執も生じた。
60年に池田大作(現・名誉会長)が第3代会長に就任してますます信者は拡大し、62年には「公明政治連盟」を創設し、64年には「公明党」を結成した。
「創価」とは「価値」の「創造」を意味し、その価値の中心は「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界平和」の実現だとしている。
教育問題の重視と平和探求を特色とし、海外での布教にも成功している。会員同士の助け合いを体現しようと、農村共同体から離脱した都市住民など庶民をメインターゲットにしたことで実質的に日本最大の教団となり、さらにヨーロッパにおける教会とキリスト教民主主義政党に似た関係を持つことで公明党を成立させた。
他宗派に対する厳しい攻撃が反発を招くことがあるが、これは日蓮宗系の一般的な特徴であるので、創価学会を特殊視するのは勘違いだ。
3代目の池田は天才的な説伏の名手であり、優れた文筆家であり、カリスマ性に満ちた組織の長で、浄土真宗の隆盛をもたらした蓮如などに通じるところがある。知識に渇望した戦後という時代の読書人であり、東西古今の思想家たちから獲得した知識を基礎にして、平和と生活向上、精神の豊かさを願う戦後日本人の価値観に沿った思想体系を打ち出した。東洋や西洋の思想のいずれからも違和感がなく、世界各国で広まることができた。
公明党の誕生と国政での立ち位置の推移
創価学会は、54年に政界進出を目的として文化部を創立し、55年の統一地方選挙において首都圏で合計53議席を得た。56年には国政に進出し、参議院議員で3議席を得ている。
61年に政治局、次いで政治団体としての「公明政治連盟」が設けられた。63年の東京都議選では17議席を獲得して第3党となっている。
64年の本部総会で、池田大作創価学会会長(当時)は宗教と政治は次元が異なるとし、学会の政治部は解散され、公明政治連盟は独立した政治団体として歩むべきであるとして、創価学会から切り離された。創価学会は、公明政治連盟の支持団体、推薦団体として自らを位置付けていくとした。学会としての「宗教と政治の分離」宣言である。
池田は「公明党」の結成を正式に提案し、公明政治連盟の全国代議員大会で、公明党の初代委員長に原島宏治が就いた。
政策は組織内部での検討に任されたが、池田会長からは党の外交政策の骨格として「中華人民共和国を正式承認し、日本は中国との国交回復に努めるべきである」との提案があり、それが反映された。結党大会に池田会長は出席しなかった。
新生公明党の力量を見せつけたのは、65年の「東京都議会黒い霧事件」での追及で、都議会を自主解散に追い込み、67年には衆議院・参議院両院で45議席を獲得した。この年に委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任している。
試練となったのは69年の「言論出版妨害事件」。創価学会を批判する評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長・田中角栄に働きかけていたことが暴露され、池田が事件を謝罪し、これを機に公明党と創価学会は政教分離を徹底することになる。
この事件の余波で、世論の批判に応じる形で、社公民路線が採られたり、創価学会と日本共産党の間で創共協定が結ばれたりしたが、もともと無理があった。他方、72年に保守色が希薄な田中角栄政権の成立を経て、自民党政権との接近も図られた。
とくに、72年の日中国交回復に当たって、公明党は地ならしに大きな功績があったし、76年の総選挙で自民党が過半数を失ったことは接近を加速した。
また、自民党幹事長小沢一郎と公明党幹事長の市川雄一の間での協力が模索されていたが、小沢が自民党を離党したのち、93年に成立した細川護熙政権に公明党も参加し、4人の閣僚を送り込んだ。
さらに、新進党の発足に大部分の国会議員が参加した、地方組織の解消に至るまでに思惑の違いが露呈し、小沢一郎は自由党を結成するなどして新進党は瓦解してしまう。それによって、98年には公明党が再結成され、自公政権につながっていった。
日蓮正宗と創価学会の対立
この課程で、日蓮正宗との厳しい対立があった。もともと日蓮正宗の信徒団体だったのが、創価学会の急成長により両者の力関係が変わったのが原因となったのである。日蓮正宗からは「自分たちに従うべき団体なのに生意気だ」という攻撃がされ、創価学会としては「学会の成長で日蓮正宗は大きな恩恵を受けたのに、勝手過ぎる」ということで対立が深まっていく。
両者の言い分を聞くと、学会の言い分のほうがもっともな点が多いようにも見えたが、組織論においてそう単純には割り切れるものではないので、苦悩が続いた。
つまり、創価学会はその出発点において、その会員を日蓮正宗の寺院の檀家とすることを約束した。その結果、創価学会員は新興宗教としては珍しく檀家となるべき寺院を持ち、葬儀なども僧侶を招いてできたのだが、各寺院の檀家は飛躍的に増えて豊かとなり、学会の立場からは我慢できない不祥事も出てきた。また、日蓮正宗の内部での内部対立に創価学会も巻き込まれたりもした。
いずれにしろ、巨大な会員数を集めたのは創価学会であるが、建前としては信徒団体であるので、日蓮正宗側に主導権はあるという無理な関係だった。
そのあげく、主として創価学会が集めた355億円という資金で1972年に建立された大石寺の巨大な白亜の正本堂を1998年に日蓮正宗が50億円かけて解体するという馬鹿げた一幕もあり、両者は絶縁した。
そうした中では、公明党も創価学会に対する攻撃とどう戦うかが大きな課題となった。そこで、宗教法人を直接に監督する立場にある東京都政から嫌がらせを受けないために、都政を自派で掌握することが重要な課題だと捉え、東京都議会選挙に国政選挙以上に力を入れることになったのは、そのためである。
また、細川政権から村山政権の時期に、政教分離の観点から自民党による創価学会公明党攻撃が行われたが、少なくとも結果的に見れば、旧統一教会への批判がこの創価学会批判のうねりになかで世間の注目を浴びなくなったのは事実だ。
また、自民党機関誌である『自由新報』が週刊誌報道などに基づく誹謗中傷を取り上げ謝罪に追い込まれるようなことがあって矛を収めざるをえなくなった経緯は、『自公連立が生まれるまでの対立と和解の波瀾万丈と背景』で説明したとおりだ。
※ 本稿は『日本の政治「解体新書」: 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書 )のそれぞれ第三章と第五章の一部を短縮抜粋したものです。
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