徳川家康と江戸時代の通信簿

本日から、NHK大河ドラマは、松本潤主演の「どうする家康」だ。家康を描くのは「徳川家康」(1983年、滝田栄主演)、「葵 徳川三代」(2000年、津川雅彦主演)に次いで三度目である。

[八幡 和郎]の本当は偉くない?歴史人物 (SB新書)私は、徳川家康についてもいろんな本を書いているが、是非、読んでもらいたいのは、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)である。秀吉とその妻の寧々の眼を通じての家康を詳細に分析している。

江戸時代については、本日、PRESIDENTOnlineで、『江戸時代の日本人は決して幸福ではなかった…明治維新を批判する人が誤解している「江戸時代の10大問題」 女性差別と部落差別が強化され、引っ越しや旅行は原則禁止』という記事を書いたのでぜひ、ご覧頂きたい。

一方、私なりの徳川家康の通信簿については、『本当は偉くない?歴史人物』(ソフトバンク新書)という本の関係箇所を以下に、紹介したい。

 

「どうする家康」NHK 公式サイトより

徳川家康 日本を世界の孤児にした臆病なケチ

ひたすらケチで臆病だが、戦国の世ではそれが貴重だった。徳川家の利権確保だけを目的に日本を長い停滞期に入らせて国益を著しく傷つけた。

偉人度 5/10 世間の評価 過大評価

石橋を叩いても渡らないような慎重な経営姿勢と揶揄されていた企業が、バブルがはじけたあとに好判断を誉められることがある。

戦国時代という、誰もが一攫千金を狙うような時代にあって、徳川家康は、ひたすら、気が小さく、ケチだった。だが、この気質が戦国時代にあってはとても希少なものだったし、それが、家康に天下を取らせた。

ただ、当時から家康のこうした性質は嫌われ、天下人の器でないといわれていたし、天下を取ってからも尊敬されこそすれ人気は出なかった。しかも、その慎重さの延長線上でのちに鎖国なども行われ、日本は黒船来航まで長い衰退期に入ってひどい目に遭うことになる。

三河は鎌倉時代に足利氏が守護をつとめていたことから、足利一族や幕府の幹部の細かい領地がたくさんあった。そんななかで最有力者は吉良氏だったが、まとめきっていたわけではない。

そうしたなかで、子沢山などが幸いして地道に勢力を伸ばしてきたのが松平氏だった。先祖については、もう一つよく分からないが、少なくとも家康より何代か前から上州新田氏の末といってきたらしい。家康が将軍になりたくて急に言い出した系図ではない。祖父の清康がこの家系に基づく世良田という名乗りをしていることが奉納した神社に書き付けられているのが見つかってそのことがはっきりした。

その清康の時にはおおいに勢力を伸ばしたが、家来に殺され、そのあとは、一族で今川氏についたものと、織田氏についたものに分かれて内紛状態にあった。家康の父である広忠は今川派で、家康も人質として駿府に送られた。ここで家康は恵まれた環境で少年時代を送り、今川義元の姪と結婚した。

だが、桶狭間の戦いのあとは織田方に鞍替えし、その同盟関係を活かして三河、遠江、駿河三国の領主となった。本能寺の変のあとには、織田領のうち信濃、甲斐を横領し、これを手放すのが嫌さに豊臣秀吉と争った。

ちょうどこのころ、九州では島津氏が全島制圧に近づいており、この状況を利用して家康は、甲信両国を手放しことなく秀吉と和解した。天下統一後には、北条旧領に移り、関東の主に出世した。家康の居城への好みは常に内陸都市だったが、大河川河口の港湾都市が大好きな秀吉の命令で江戸を居城にした。東京を関東の首都にした恩人は家康でなく秀吉だ。

秀吉の遺言により前田利家とともに秀頼を後見した。最初は利家に比べて不利な立場にあり、なんとか、自分の領分を守ろうと勝手に諸大名と縁組みなどしているうちに利家が死に、突然に天下一の実力者になった。

だが、会津の上杉景勝が関東を狙うのでないかと心配で圧力をかけたところ、石田三成が挙兵した。決して有利な状況になかったが、二、三位連合の弱みにつけ込み、また、「海道一の弓取り」といわれた戦い上手の面目に欠けて思いもかけぬ大勝利を収めた。

そうなれば、東日本だけでも支配を盤石にしようと関東と東海を譜代大名で固めた、関東の主にふさわしい征夷大将軍の肩書きも得た。そののちも望外の長生きをし、秀頼の成人後のことも心配になって、念のために少しずつ圧迫したところ、秀頼とその母である淀殿が抵抗したので、ついでに、滅ぼしてしまった。

そうなれば、徳川の天下を維持するためには、ともかく、何も変わらない平穏な世の中がよい。

宗派の争いは社会不安の下だから、布教活動は禁じる。世の中が便利になるとろくなことにはないから、信長や秀吉が廃止した関所をまた設け、東海道など三世紀にわたって一切といって良いほど改良しない。

年貢は米からだけ取ることにしたので、他の作物はできるだけ作らさないようにする。ともかく、何事に付けても、人民が何かに意欲的になると言うことが一番困るのだ。

海外となど付き合わなくて済むならそれに越したことはないといわんばかりに、孫の家光は鎖国してしまう。キリスト教の浸透が恐いから書籍の輸入も事実上しないという徹底ぶりだ。その結果はどうなったかと言えば、関ヶ原のころには世界でも最先進国のひとつだったものが、三世紀ののちには、まったくの発展途上国になって、危うく植民地にされかかったのである。

江戸時代が環境先進国だったなどというのも、冗談ではない。江戸時代は木を切りすぎて禿げ山だらけ洪水頻発で、ちょうど今日の北朝鮮みたいな惨状だった。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館