ローマ五輪金メダリストであるギリシャ元国王の崩御

ローマ五輪の金メダリストで英国のウィリアム皇太子の名付け親でもある元ギリシャ国王のコンスタンティノス2世が10日にアテネで死去した。82歳だった。

コンスタンティノス2世夫妻(1997年)Wikipediaより

スペイン国王の母の兄弟。英国のチャールズ国王の父であるエジンバラ公はギリシャ王室出身。呼吸器の病気で先週からアテネ市内の病院に入院していたそうだ。

ギリシャの独立は、1830年に認められたのだが、列強の妥協としてヨーロッパの小国の王族を国王とすることになった。

バイエルン王ヴィッテルスバッハ家のオットーが選ばれ、オソン1世となった。 バイエルン王家が東ローマ皇帝だったアレクシオス3世アンゲロス(1195年~1203年)やニカイア皇帝テオドロス1世ラスカリス(1205年~22年) の血を女系で引くハンガリー王イシュトヴァーン5世(1239年頃~72年)と血縁関係があることも、この即位を正当化する理由になっていた。

即位したときオソン1世はまだ16歳でバイエルン人たちが補佐したが、彼らはギリシャを良く理解しようともせず、ギリシャ正教に改宗もしなかった。

クーデターでオソンを追い出して、デンマーク王家であるグリュックスブルク家からゲオルギオス1世を迎えた。第一回の近代オリンピックがアテネで開催されるなどしてギリシャが近代国家らしくなったのはこの時代だ。

コンスタンティヌスはパウロス1世と旧ハノーファー王家(ヴィクトリア女王の叔父の系統)のフリデリキ王妃の第2子として生まれ、姉はスペイン国王フアン・カルロス1世の王妃となったソフィアである。1960年にローマ五輪でセーリングのドラゴン級で金メダルを獲得。

1964年にパウロス1世の死去で即位し、デンマーク女王マルグレーテ2世の妹アンナ=マリアと結婚。

左派の首相のゲオルギオス・パパンドレウと対立し、パパンドレウは1965年に辞任したが、1967年軍事クーデターが起き、これに反対し12月にローマに脱出した。

1973年に軍事政権は君主制を廃止し1974年にはカラマンリス率いる政権のもとで2度目の国民投票で大差をつけて正式に君主制の廃止が決定。政治的能力のなさが顕著だった。

共和制政権より一時帰国を拒否されていたが、1981年、王太后フレデリキをタトイの王家の墓所に葬るため帰国。

2004年にアテネオリンピック大会で国際オリンピック委員会委員として出席。

王室財産問題でギリシャ政府を欧州人権裁判所に提訴するために、名字を名乗る必要に迫らギリシャ語で「ギリシャの」を意味するτης Ελλάδας(ティス・エラザス)に決めた。アテネ・オリンピックで一時帰国した際には、デンマークの外交パスポートを持って入国した。

ロンドンに在住。イギリス国王チャールズ3世(男系の又従兄弟同士である)と親しかった。2013年以降はアテネに住んだ。

コンスタンティノス2世夫妻(2010年、ストックホルム) Wikipedia

※ 本稿はメルマガ「八幡和郎のFacebookでは書けない話」の要約記事です。