バチカンの元財務長官のペル枢機卿の急死

バチカンの元財務省長官でフランシスコ教皇の信頼の厚かったジョージ・ペル枢機卿が10日夜(現地時間)、ローマの病院での通常の股関節手術後、心臓病の合併症を起こして死去した。81歳だった。同枢機卿は今月5日、サンピエトロ広場で挙行された前教皇ベネディクト16世の葬儀に出席していた。ぺル枢機卿の急死はバチカンだけではなく、出身地のオーストラリア教会でも大きな衝撃を投じている。

生前のぺル枢機卿(バチカンニュース2023年1月11日から)

ぺル枢機卿は1941年、オーストラリアのバララットで生まれた。同枢機卿は、メルボルン大司教(1996年~2001年)とシドニー大司教(2001年~2014年)を務めた後、2013年4月13日、教皇庁枢機卿評議会のメンバーとして、教皇庁改革の問題についてフランシスコ教皇に助言してきた。同教皇はペル枢機卿を新しく設立したバチカン経済評議会の財務長官(2014年~19年)に任命した。

オーストラリア出身で長身のぺル枢機卿の話はこのコラム欄でも何度か取り上げてきた。ペル枢機卿は2017年、未成年者への性的虐待容疑で訴えられた。ぺル枢機卿は裁判に対応するため同年7月、バチカンを去り、母国に戻った。容疑はメルボルン大司教時代の1996、97年、2人の未成年者へ性的虐待を行ったという内容だ。メルボルン地裁(陪審制)は2018年12月、有罪判決を下し、19年2月、枢機卿は刑務所に拘留された。同年6月の第2審も第1審の判決を支持した。バチカンのナンバー3の枢機卿が性的虐待問題で禁固刑を受けたのは当時、初めてのケースだった。

オーストラリア教会では1950年から2010年の間、全聖職者の少なくとも7%が未成年者への性的虐待で告訴されている。身元が確認された件数だけで少なくとも1880人の聖職者の名前が挙げられていた。報告書によれば、教会側は事件が発覚すると、性犯罪を犯した聖職者を左遷する一方、事件については隠蔽してきた。ペル枢機卿は当時、「教会は大きな間違いを犯した」と証言したが、自身が事件を隠蔽したことはないと述べている。一方、聖職者の性犯罪報告書が公表されたことで、多くの国民や信者たちは、「オーストラリア教会最高指導者の同枢機卿が全く事件を知らなかったとは到底考えられない」と受け取ってきた。そのような雰囲気の中、ペル枢機卿は告訴され、裁判が始まり、有罪判決が下されたわけだ(「豪教会聖職者の『性犯罪』の衝撃」2017年2月9日参考)。

ぺル枢機卿は裁判では自身の無罪を主張し続けてきた。原告側の申し立てには多くの欠陥があったとして、ぺル枢機卿の控訴が認められ、同国最高裁判所は2020年4月、「有罪判決を下すには証人の発言は十分ではない」とし、同枢機卿への容疑に対し無罪の判決を下した。同枢機卿は刑務所から釈放された。400日間余り独房生活を強いられてきた同枢機卿はその後、ローマに戻り、そこで最後まで暮らしてきた。教皇庁は当時、同枢機卿の無罪判決を歓迎した(「400日『独房』にいた枢機卿」2020年10月16日参考)。

フランシスコ教皇はペル枢機卿の死を悼み、「バチカンの改革に対するペル枢機卿のコミットメントを高く評価する。彼は着実で献身的な証人だった」と述べている。

一方、オーストラリア人は、ペル枢機卿の突然の死に、複雑な感情で反応している。豪教会関係者は、シドニーとメルボルンの元大司教の重要な神学的役割を評価。保守派の野党関係者は、ペル枢機卿の有罪判決を批判し、「枢機卿は政治的迫害の犠牲者だった」と受け取っている。トニー・アボット元首相はぺル枢機卿の一時的な投獄を「現代の磔刑」と呼んできた。一方、犠牲者側は「教会はぺル枢機卿を崇拝してきた。枢機卿は大規模な児童虐待に目をつぶってきた」と指摘、教会の聖職者の性犯罪に対する問題処理を批判している。

シドニー大司教区によると、ペル枢機卿の遺体はローマでの葬儀後、オーストラリアに運ばれ、シドニー大聖堂の地下室に埋葬される予定だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年1月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。