オーストリアはモーツアルトやシューベルトなどのクラシック音楽のメッカだ。ボン生まれの楽聖ベートーヴェンも人生のほとんどをウィーンで過ごし、そこで名曲を生み出していった。また、中欧で大帝国を誇ったハプスブルク王朝時代の建物は建築家にとって魅力があるだろう。これがオーストリアの歴史の「明」の部分とすれば、「暗」はやはりナチス・ドイツ軍を率いて欧州全土を席巻した独裁者アドルフ・ヒトラーの生まれた国はオーストリアだという事実だろう。
ベートーヴェンはオーストリア人で、ヒトラーはドイツ人だと嘯くオーストリア人もいる。事実は逆だ。どの民族、国家にも歴史の中には明暗の両面がある。その意味でオーストリアも例外ではないが、ヒトラーの存在はオーストリア国民の上に今も重くのしかかっている。
オーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)にはアドルフ・ヒトラーの生家があるが、「ヒトラーの生家」の改修工事が遅れてきた。ここにきてようやく改修作業は今秋には始まることになったばかりだ。改修費用は計画当初、約500万ユーロと見積もられていたが、2022年までに既に1100万ユーロに達した。改修費用は今後も大幅に膨れ上がることが予想されている。
「ヒトラーの生家」をどのような形で保存していくかでオーストリアでは長い議論があったが、最終的には生家を改修して警察署にすることになった。改修計画は3年前に提示されたが、具体的な作業は始まらなかった。工事が遅れた理由について、同国内務省は新型コロナウイルスの感染と建設業界の事情を挙げている。
「ヒトラーの生家」の歴史的な検証と考古学的発掘の作業はこれまで建物の内部で行われてきた。改修作業は今年第3四半期には開始したいというが、この日付も入札の結果と正式な手続きの完了などのプロセスがあるから遅れる可能性はある。予定では、改修作業は2025年末には終わり、26年の第1四半期には警察官が引っ越し、業務を開始することになっている。なお、ブラウナウ市のヨハネス・ヴァイドバヒヤー市長はオーストリア放送とのインタビューの中で「改修工事はさらに遅れたとしても驚かない」という。
「ヒトラーの生家」の扱いでは、同生家の持ち主とオーストリア政府との間で法的な紛争があった。最終的には、政府は家主からヒトラーの生家を強制収用することを決定、関連法案を採決した。収用の法的要件は建物と「ヒトラーの生家」を結びつけてはならないことになっている。だから、建物の中にはヒトラーを想起させる如何なる展示エリアもない。建物の前に歴史に言及した記念石があるだけだ。政府は「ヒトラーの生家」がネオ・ナチ関係者の聖地となることを恐れている。戦後75年以上が過ぎたが、オーストリアはヒトラーに関連する事には依然、異常なほど神経を使っているわけだ。
ヒトラーが率いるナチス政権は1938年3月13日、母国オーストリアに戻り、首都ウィーンの英雄広場で凱旋演説をした。
オーストリアはその後、ドイツに併合され、ウィーン市は第3帝国の第2首都となり、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与し、欧州を次々と支配していった。同時に、欧州に住むユダヤ人600万人を強制収容所に送り、そこで殺害した。
オーストリアがヒトラーの戦争犯罪の共犯者だったことを正式に認めたのはフラニツキ―政権が誕生してからだ。同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月~96年3月)はイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めた。そこまで到達するのに半世紀余りの月日を必要としたのだ(「ナチス政権との決別と『戦争責任』」2015年4月29日参考)。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年1月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。