国民にとっての政治とは?:当選すると遠い人になる日本の場合

春節の前日、1月21日に当地で新民主党という政党の集まりがあり、参加しました。会場は日系センター。つまり我々日本人や日系人が普段集まる大ホールです。当日「おしくら饅頭」になるほどのひと、ひと、ひと。新民主党は連邦では有力野党の一つで州では与党です。今回は党首自らが音頭を取ります。

何人かの大臣や秘書の方々、コミュニティのリーダーたちと挨拶をしながら会場をぐるっと一周しましたが、数百人いるその会場で日本人はほとんど見かけることはできませんでした。つまり日本人は誰も呼ばれてもいないし、誰も興味もないのです。

当地の政党の集まりの基本パタンは連邦レベル、州レベル、市町村レベルで議員たちがグループで動きます。今回も連邦議員は2人でしたが、州の議員が6-7人、市の議員はほぼ全員が出席し、大臣や市長が紹介がてら各議員に一言ずつ挨拶させます。これが驚きで、ほぼすべての議員が中国語で新年おめでとうとあいさつしたのです。もちろん、参加している皆さんは大喜び、中にはかなり流暢に中国語で挨拶する議員もいて、やんやの喝采です。

韓国系コミュニティーからはベトナム戦争に兵役した90歳代のベテラン(退役軍人)がずらっと最前席に並び、紹介されたら日本語で返されました。インドネシアのコミュニティは70人規模の人を送り込んだと自慢されました。もちろん、春節が日本人のお祝いではないので参加していないのは当たり前と言えばそれまでですが、当地では日本や西欧で言う1月1日の正月と同じぐらい、春節を皆で祝う雰囲気が年々盛り上がってきています。その意味では日本人は関係ない、というスタンスではうまくないのです。

日本の政治と当地の政治、何が違うのだろうと考えると議員の市民への寄り添い方が非常に近い気がします。私は大臣とは時々ご一緒しますが、秘書を連れて歩くということはしません。もちろん、黒塗りの車が待っているわけでもありません。極端な話、「そこまで行くなら乗せて行って」ぐらいの感覚です。有権者に選ばれた代表者にとって有権者が一番大事なのは当たり前です。ビジネスで言うなら顧客なのですから。

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日本の場合、選挙の時は一生懸命手を振ってくれますが、当選すると遠い人になってしまいます。地元に戻ってくる時も後援会の人たちががっちり押さえてしまい、一般の有権者が気安く話をできる雰囲気はありません。もちろん、先般の事件のようなこともありますのでみだりに一般の方との接点を持つのは危険だという考え方は理解できます。しかし、それでも当選したとたんに「センセイ」となり、クルマが付き、秘書がつくのです。まるで別世界。

こうなると有権者はまるでアイドルのコンサートに行くぐらいの感覚で遠くで応援する形になります。

以前、私は日本には士農工商は無くなったけれど「士」と「農工商」には見えない壁があると意見したことがあります。「士」は役人と政治家それぞれあるのですが、政治家に絞ってみると有権者は「あなたにお任せしたのであとはよろしく」的なところがあり、途中で意見することも討論することも原則ありません。

おまけに議員は「私としては皆さまの声を反映したいと思いますが、党としての考えもありますので…」という政党政治の殻から抜けられないのです。それならいっそうのこと、〇〇党にふさわしい人を選挙で選ぶという位置づけの方がより妥当にすら見えてしまうのです。選挙の時に候補者の公約なんて聞いてもしょうがないという気にすらなるのです。

もちろん、カナダにしろアメリカにしろ政党の枠組みはしっかりしていますが、アメリカなどは必ずしも政党の枠で縛り切れないケースもあるわけでそこは有権者の意思をしっかり行動で示しているとも言えます。

もう一つ、当地は市町村レベルでは政党で押し込まず、市議がそれぞれの議案についてそれぞれの意見を出す仕組みです。それはより地元に寄り添った政治をしているともいえるのでしょう。当地の政治を見ていると有権者と議員の距離はとても近いと思います。それ故に有権者が政治により真剣になり、参加型になるとも言えるのではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年1月26日の記事より転載させていただきました。