チェコ国民は1月28日に行われた大統領選挙で、台湾の民主主義を支援し中国に厳しい立場をとると目される元NATO軍事委員長のペトル・パべル退役陸軍大将を選んだ。21年10月の拙稿でこうした事態になることを予測していたので、筆者はこの報を感慨深く読んだ(拙稿「共産党と社会党が議席喪失:見習うべきチェコの総選挙」)。
21年にチェコからワクチン供与や上院議長訪問を受けた台湾の蔡英文総統は31日、電話でパベルに祝意を伝えた。パベルは「チェコは民主主義体制の側に立っている。台湾が活力のある民主制度を維持し、権威主義の脅迫を受けないようにすることを支持している」と、協力関係を発展させていくことへの期待を示した(31日の「Radio Taiwan International」)。
蔡が「ロンドン大学で似たような生活の経歴を持つパベル氏と、今後も台湾とチェコとの関係、地域の議題について幅広く意見交換ができるよう希望すると述べた」とも記事は伝えている。
78年に台湾大学を出た蔡は、コーネル大ロースクールで法学修士、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得した(84年)。パベルも88年から3年間陸軍士官学校 (後に国防大学)で学び、ロンドンの王立防衛研究大学を経てキングス・カレッジで国際関係の修士号を取得している。
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チェコと言えば、筆者の世代なら先ずは東京五輪の女子体操チャスラフスカの名が頭に浮かぶ。68年に民主化運動「プラハの春」を支持する「二千語宣言」に署名し、ソ連の介入に巻き込まれるが、彼女は同年のメキシコ五輪でも大人の女性のエレガントでありながら力強い演技で祖国を勇気づけた。
音楽好きの筆者にとっては、スメタナとドボルザークに代表されるクラシックもチェコだ。前者の連作交響詩「我が祖国」は失聴した晩年の作で、有名な2曲目の「モルダウ」はチェコ語では「ヴルタヴァ」という。ドイツ語読みの方が有名な辺りがこの国の複雑な歴史を物語る。
スメタナが世に出したドボルザークの作品では、招かれた米国で作った交響曲第9番「新世界より」が良く知られる。チェコ西部を指す「ボヘミア」楽派の彼は、祖国に戻って生涯を終えた。筆者は両作品とも、チェコ出身のラファエル・クーベリックが指揮するチェコフィルの演奏を愛好する。
歴史の側面で筆者の興味をチェコに向けさせた本は2冊。1冊(実は4冊)は20世紀初期に満洲やシベリアでスパイ活動に従事した石光真清の手記4部作(「城下の人」「曠野の花」「誰のために」「望郷の歌」中公文庫)であり、他は林忠行の「中欧の分裂と統合―マサリクとチェコスロバキアの建国」だ。
前者で石光は、満洲馬賊に捕まったところを日本人娼婦に助け出されたり、朝鮮人スパイに謀られたり、コサックと交流したり、と波乱万丈の経験をする。時あたかもロシア革命や第一次大戦の初期、その記述には「チェコスロバキア軍団」(以下「軍団」)や「シベリア出兵」の話が出てくる。
そこで書棚の「中欧の分裂と統合」(中公新書)の埃を払ったのは5〜6年前だったか。著者の林忠行が筆者と高校同級だったことを知っていて以前に購入してあったものの、長らく「積ん読」していた。もちろん先方は当方を憶えていないと思うが、筆者は10代後半の林を良く覚えている。
「総理と五輪金メダリストとノーベル賞受賞者」を出したことを何度か本欄で書いた我が母校の体育祭では、1〜3年生で組む8チームが、競技の他に応援席に設ける高さ10mの巨大なデコレーションの出来栄えも競う(筆者もこれの制作を通じて酒や煙草を覚えた)。その年、競技は我がチームが勝ったがデコレーションの優勝は林のチーム、アポロ11号の月面着陸を模したデザインは確か彼だった。
何年か前に京都女子大学長だった林を偶さかテレビ番組で見かけ、半世紀を経てずいぶん外貌が変わった彼が、細谷千博(「シベリア出兵」研究の第一人者)に師事したチェコ史家だったことを思い出し、石光の4部作と並行して林の中公新書を取り出してじっくり拝読した。
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3月に新大統領に就任するペトル・パべルは、チェコの第4代大統領で国民投票によって選ばれた2人目の国家元首、と28日の「ラジオチェコ」は報じる。初代大統領は、ベルリンの壁崩壊と相前後した89年11月のチェコの共産党体制崩壊(「ビロード革命」)で就任したヴァーツラフ・ハベルだ。
では林書の副題にある「マサリク」とは何者かと言えば、チェコスロバキアの初代大統領だ。1918年、同国が第一次大戦の終戦でハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)から独立を果すのに、マサリクが亡命した海外で各国に窮状を訴え、またロシアで「軍団」を結成するなど多大な貢献をしたことに由る。
マサリクは1918年4月に日本にもしばらく滞在した。が、それは日本が米国の要請を機にシベリアに出兵する3ヵ月前という時期のせいか、国内でほとんど話題に上らなかった(林書)。その日米がシベリアに出兵をする理由にしたのが、この「軍団」を救出することだった。
オーストリア=ハンガリー帝国の北部地域にあって、北と西をドイツ、東をロシア(ウクライナ)と接し、帝国の南にはセルビアなどのバルカン諸国、更にその南にはオスマン帝国が位置するという第一次大戦前のチェコスロバキアの地政は、こう並べただけでもきな臭い匂いが漂う。
その辺りを林はこう書いている。
オスマン帝国によるバルカン支配は、十九世紀に入るとバルカン諸民族のナショナリズムの台頭によって動揺を来たし、しだいにバルカン諸国は自治や事実上の独立を獲得することになる。・・さらにこの地域に少なからぬ関心を抱くロシア帝国とハプスブルク帝国が様々な局面で問題に関与し、加えて英仏独と言った列強もこの地域に無関心ではあり得なかった。
ここでは第一次大戦(1914年7月-18年11月)の詳細には入らないが、林はそれを「見方によってはスラブ対ゲルマンの戦いといえなくもなかった」とする。未だ中立だった16年末、ウィルソン米大統領が交戦国に戦争目的を問うた際、連合国の回答には「イタリア人、スラブ人、ルーマニア人、そしてチェコ=スロバキア人が外国の支配から解放されること」との一項があった(林書)。
マサリクはチェコ兵士の出征を見ながら、何かしなければとの焦燥に駆られていた。14年夏に家族でドイツを訪れたマサリクは、帰りの列車で召集を受けて帰国する、ドイツで働いていたチェコ人兵士と遭遇する。同じスラブ人であるロシアやセルビアの兵士と戦うことに大義を見出せない彼らは酩酊し、その士気は高くなかった。
ロシアではチェコ人とスロバキア人の移民からなる義勇軍が編成され、14年12月にはその中の一人がプラハで反乱を促した。15年4月にはチェコ兵1400人、6月には1500人の連隊がロシア側に投降していた。マサリクがこうした兵を纏めた「軍団」は、膠着する西部戦線を避け、ウラジオストクから海路フランスへ向かう。その過程のシベリア鉄道で孤立したことが「シベリア出兵」の口実となった。
こうした中、マサリクは西欧で独立運動を展開する旅に出る。先ず中立国オランダ、次にイタリアからスイスで活動し、パリに向う。当時の米国には50万のチェコ人と28万のスロバキア人移民がおり、マサリク夫人が米国人であったことや、民主主義を重んじるマサリクの西欧的思想も相まって、彼らはマサリクを支持し、多額の寄付を行った。
ロンドンでは、後年パベルに修士号を与えたキングス・カレッジが、新設するスラブ専門学部の講師としてマサリクを招いた。15年10月の就任演説で彼は、小国が独立し乱立することが国際政治を不安定化させることを危惧する列強のこの伝統校で、小さな民族が国家を作ることの意味を説こうと、民族と国家が別のものであることを強調した。
マサリクは、国家が「人工的なもの」であるのに対して、「ネイション」つまり民族を、言語や文化で結ばれた人間集団として位置付け、それは「自然なもの」であり、「民主的なもの」であるとし、そういった民族に基づいて国家も創られねばならないと述べた(林書)。
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斯くて独立したチェコスロバキアは89年の「ビロード革命」で民主化したが、93年にチェコ共和国とスロバキア共和国に穏やかに分離独立する(「ビロード離婚」)。チェコの11百万、スロバキアの5.5百万の人口のそれぞれ8割強をチェコ人とスロバキア人が占める。
そこで冒頭に戻れば、蔡英文へのパベル発言のキーワードも「民主主義」だ。マサリクのいう「ネイション」つまり「民族」とは、換言すれば「台湾人アイデンティティ」に相違ない。台湾国立政治大学が毎年行っている世論調査は、30年前には20%に満たなかった台湾人アイデンティティの持ち主が、今や60%台まで上昇したことを示している。
先の台湾統一地方選挙で大敗した蔡に代わって民進党主席に就任した頼清徳は、自身が台湾独立派であることを問われ、「台湾は既に独立している。台湾の独立を改めて宣言する必要はない」「台湾も中国も互いに帰属してはいない。台湾の将来は台湾の2300万人の住民が決める。この考え方は蔡政権の従来路線と変わらない」と述べた。
自国の将来を国民が決められる、それが民主主義ということだ。